南帝ラヂヲ

南朝・後南朝に関連する史蹟の現状を保存していきます。

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尊義親王墓

2010 - 04/30 [Fri] - 14:21




さらに奥に続く道を辿っていきます。沢に降り、再び対岸に渡ります。「尊義親王墓→」の道標に従って進み、左の丘を登っていきます。30mほど登ると、檀が設えてある上に石柱・石碑が見えます(写真左)。石柱には「尊義親王御墓」と彫られてあります(写真中)。

尊義親王は、別名・万寿寺宮とも空因法親王とも申し上げ、伝承によると、後亀山天皇皇子・小倉宮実仁親王の子息ということになっています。禁闕の変で神璽を奪取した後、まず近江君ケ畑に潜伏、次いで川上村に潜幸して八幡平に御所を置き、即位の礼を執り行ったとされています(中興天皇)。親戚筋の円満院宮円胤法親王(還俗して義有王)を征夷大将軍に、楠木正秀を軍師に任じて、主に紀伊方面で活発に行動させます。しかし義有王らが紀伊湯浅付近で討ち死にすると、八幡平御所も幕府軍に狙われるということで、奥地の隠し平行宮に潜幸したわけです。当時尊義親王には二人の子がありました。後の自天皇(尊秀王)と河野宮(忠義王)です。三人の貴人がいた場所ということで、この地を特に「三之公」と言うわけです。

尊義親王は三之公行宮で南朝復興を画策していましたが、病を得てついに1455年、崩御してしまいます。これを悲しんだ後南朝一統と里人たちは、遺骸をこの地に葬って供養しました。実際お墓とされているこの場所は、沢がすぐ近くを流れているにもかかわらずほとんどその音がしません。墓所にふさわしい安眠の地と言えましょう。

さて15分ほど休息をとり、三之公行宮を後にします。帰りは下り勾配が主ですので足が止まることなく歩き続けます。ただ道幅は細いので転ばないように気をつけねばなりません。40分ほどかけて明神滝出合にまで戻りました。

せっかくなので、かなりの急勾配を下って明神滝見物に行きます。途中に二階建ての高さほどもある巨岩があります。後に知るところによると、この岩は「宝」と言って神璽をその裂け目に隠していたとか。5分ほどで河原に着きます。滝は圧倒的な水量をもって轟音をたてて目の前に落ちています(写真右)。しばらくぼーっと眺めていると、疲れもかなり癒されました。元気を回復して明神滝を後にします。

そして登山口に戻ります。時刻は16:30を過ぎていました。体力も気力もかなり使ったのでヘトヘトになりましたが、一生に一度行けるかといった秘境の聖地を拝した満足感がありました。



大きな地図で見る
 

遂に行かれたのですね!

お疲れ様でした!
最新の三之公隠し平情報に胸が躍っております!!
毎年春先に川上村の方々が整備しておられるとは聞いていましたが、実際に画像を拝見してホッとしました。
新緑に時おり涼やかな風が吹き、鳥の囀りさえ聞こえてきそうな、そんなお写真をありがとうございます。
三之公名物(?)の山蛭やマムシの時期にもまだ早かったようで良かったです。小松左京氏の小説に出てきた洞窟はありませんでしたか?(笑

私事ながら、後南朝に興味を抱いた大きな要因の一つが数々の書で見た八幡平・三之公に関する記述でした。
中でも柞木田龍善氏の「秘境・歴史の旅」には思い入れがあります。
(既にご存知かと思いますので、以下は読み飛ばして下さいね(笑)
彼は昭和40年代に3回ほど現地に行っていますが、河原や桟道、丸木橋などを歩いていますね。当時の八幡平には3軒ほど(福上氏、西浦氏、奥氏)の家と木材搬出の人夫小屋があったとか。
山林管理人の福上家には「南朝皇統一覧略図」があり、家の上方に万寿宮が即位し皇居とした八幡神社(三之公大明神)。奥氏は当時住みついたばかりだったとか。
西浦氏は台高山脈のガイドで、かの湯川秀樹博士や深田久弥氏も案内するもそれらの時には隠し平まで行けなかったと。著者を案内した西浦氏が子供の頃に隠し平から発掘された刀剣が「白鞘で刃がまだピカピカ光っていた」とか、明神滝近くの「宝蔵岩」の件を読んだ時には更にワクワクしたものです。その気持ちが私を後南朝という歴史浪漫の世界へ一層駆り立てたのは申すまでもありません。
大正時代に西浦氏の御父上が植えられたという杉林に囲まれ、氏自身が建立された「尊義親王御墓」の碑。後南朝伝承の原点ともいうべき地の空気を実際に味わってこられたのは素晴らしい事ですよ!!
今でも胸躍るその歴史浪漫に感謝し、遥か三之公の方角に向けて北摂の地より深く一礼を捧げたく思います・・・。
今回もワクワクするレポをありがとうございます!!!

Re: 遂に行かれたのですね!

> お疲れ様でした!
疲れましたわ~(笑)。
まぁもう若くないし、身体がまだ動ける間に…
って思って、気合を入れて行ってきました。

確かにしんどくて「俺はいったい何をしているんやろ」
とか諦めそうにもなったのですが、くじけず到達する
ことができて本当に感激しました。

> 毎年春先に川上村の方々が整備しておられる
整備はかなり行き届いていました。
ロープでつかむところを作ってあったり、
倒木が道を塞いでいるんですが、足をかけるところを
切り欠いてあったり、荒れた感はまったくなかったです。

> 山蛭やマムシの時期にもまだ早かったよう
ヤマビルにはけっこうビクビクもんだったのですが、
まだ冬眠中だった模様(笑)。3月~4月と11月~12月ぐらいが
ちょうど良い時期でしょう。

> 小松左京氏の小説に出てきた洞窟
確認するのを忘れてた(笑)!ただ、帰りにふと眺めた滝の側、
対岸にぽっかりと洞窟が開いてましたな。あれに着想を得たの
やもしれません。

> 柞木田龍善氏の「秘境・歴史の旅」
あ…実はこれは知らないですね(^^;。
内容的には私の持ってる後南朝史蹟解説のコピーとかなり符号しますな。
探して読んでみよう。

> 実際に味わってこられたのは素晴らしい
ご自身でも味わって下さい(^-^)。
軽登山装備で行けます。ただ、梅雨の前後で
状況が一変するような道ではあります。

 

お疲れ様です。

あれ?リニューアルされました?
三之公行宮址が映えていますね!

例の「秘境・歴史の旅」、もうお読みになられましたか?
先日、所用で大阪府立図書館に立ち寄った際に確認したところ、書庫に2部の在庫があり貸出可という事でした。
でも、もし可能でしたら、入手される事をお勧めします。希少本の類でもあり多少お値段が張る事もありますが、蔵書にされても損のない書だと思います。
220頁ほどの本書で三之公の章は10数頁なのですが、内容的には濃く、何よりも当時の現地の空気が感じられます。
長慶天皇の「お供」の子孫と言い聞かされて育った筆者ゆえか、本書の12章のうち半数強が南朝~後南朝関連の記事です。筆者の出身地である青森県三戸界隈をはじめ、三之公、北山宮~金剛寺、十津川、静岡県の京丸、長野県の遠山郷、そして浪合など、歴史浪漫の香り漂う一書ですよ。
そもそも私が本書を入手したのは、以前より調べていた木地師絡みで、近江の蛭谷・君ヶ畑の紀行が載っていたからです。しかし、三之公紀行を読むに及んで後南朝への想いも更に強くなった事は間違いなく、本書へ足を向けて眠るわけにはいかないのでした(笑)
宣伝にはなってしまいましたが、既に入手されておられましたらご容赦下さいませ。

それから、以前にお知らせした事がある誤難聴さんブログ。かなり酷い書き込みが相次ぎ心配していたのですが、近々再開更新されるとご本人より。熊野の最新情報も再び見られそうで、ホッと一安心です。また、河陽南帝さんもお訪ね下さいね!

天候・気温ともに変化が激しいですが、お互い健康には気をつけましょうね。
ではでは、また。

Re: お疲れ様です。

> あれ?リニューアルされました?
> 三之公行宮址が映えていますね!
まぁちょっと気分転換に…
行宮址碑のお気に入りアングルです(笑)。

> 例の「秘境・歴史の旅」、もうお読みになられましたか?
現在、手元にありますよ(笑)。大阪市立中央で借りました。
…なるほど、萌えますな!行きたいところばっかりですわ。
尹良親王の浪合とか、すごく行きたいです。
記述も正確かつ簡潔なので読みやすいですね。

> 蔵書にされても損のない書だと思います。
確かに欲しい本です。網を張っておきます(笑)。

> 誤難聴さんブログ
ちょくちょくは覗いていましたが、そういう経緯があったんですか。
yahooブログはコメント承認制はできないんでしょうかな?
事前に検閲しておけば、変なコメントは押さえれますよ。

> 天候・気温ともに変化が激しいですが、お互い健康には気をつけましょうね。
今晩はひんやりとしてますな~。
布団けったら風邪引きますね…。
気をつけましょう!

 

ご無沙汰です。

お元気ですか? ついに梅雨入りしましたね。
こちらは忙殺されておりました・・・はぁ~・・・。
まだ当分はこんな感じかと思うとゾッとしますが(笑)
やっと休みらしい休みを迎えて溜まっていた蔵書の整理をしていましたら、思わぬ収穫がありましたので報告申し上げます。(既にご存じでしたらお聞き流し下さいね。)

途中まで読んで放置していた一冊に「土佐太平記」(明神健太郎・著)があります。古文書を基にした小説仕立ての土佐高岡郡河間郷(現在の高知県高岡郡佐川町庄田)を中心とした年代記で、表題通り南北朝期を主体に語られています。もともとは昭和30年に発刊され、その後2度に渡り復刻、手持ちのものは昭和52年の刊行です。著者は地元の郷土史家です。
土佐南北朝期の代表的史料「佐伯文書」にも記された土佐南朝の主力である当地の河間一族を中心に描いた本書に、楠木正勝・正顕父子が登場しているのです。
かつて尊良親王を入野の浜に迎えた大平弾正の子である河間光綱とその兄弟縁者の佐川氏・斗賀野氏・近藤氏など一族は大高坂城攻防戦をはじめとする数々の戦いに参加するも、時勢には勝てず没落していきます。
河間合戦に戦死した河間光綱の長子・河間有康は従兄弟の佐川光之と共に土佐を出ます。畿内で楠木氏に仕えるも南朝は振るわず両人とも戦死。光之の子・佐川正光は楠木正勝に仕えたが南朝方は更に没落した為、正勝の子・正顕と楠木氏恩顧の僧・昭倫を伴って河間郷に帰郷します。時に応永26年(1419)との事です。
先の河間有康の甥で河間郷代官の河添宗綱に快く迎えられた一行が当地に落ち着いて2年後、老体の楠木正勝が家臣18名を伴って来住。河間氏の主家・大平氏にも謁見し、正勝は河間郷・中野郷の代官と鯨坂八幡宮の宮司に任命、正顕は下代官兼書留役となり、橘氏を名乗るようになりました。
応永31年4月7日に正勝は病死し、正顕が職を継ぎます。正勝と共に来住した者は南・富田・和田・下条・八塚・坂本・藤崎・常石・美野越・橋本・岡田・河原田・伊藤・江田川・中屋・大西・八木の18名ですが帰国した者もいて、和田・岡田・藤崎・常石・伊藤・江田川の各氏が残りました。
ところが永享10年(1438)12月25日、橘(楠木)正顕は隣の黒岩郷の代官・片岡氏に不意を襲われます。片岡氏は代々が北朝方で南朝方の河間氏とは因縁の関係にあり、更に南朝にゆかり深い新参の橘氏が河間代官に抜擢された事も恨んでいました。防戦空しく正顕は駆けつけた佐川正光や岡田氏・藤崎氏らと共に戦死します(享年43歳)。一丸と多聞丸の二子を遺します。
その後、一丸は正照と名乗って橘家を再興し河間代官職に復活、正国を名乗った多聞丸は和田氏を興し吾北の上八川城(高知県吾川郡いの町上八川)城主となります。
正照が継いだ橘家はその後も代官職にあり、江戸時代にも名が見えます。また後裔の一人に福留隼人があります。代官・橘助之の子・正信が養子となったもので、長宗我部元親の重臣として有名です。
弟の正国が興した和田氏はその後4代に渡って繁栄しますが、美濃守晴長の代に野望の矛先を向けた片岡氏によって滅亡。子の和田正助は幡多地方に追放、一族郎党も四散しました。(この地の和田氏は現在の高知県土佐郡土佐町和田を本拠とする和田義盛を祖とする和田氏が西進した説もあります。)
以上が楠木氏関連部分のあらましです(長くなりましたが(笑))。
本書のベースは「八幡荘伝承記」と「片岡物語」。両文書は当地の断片的な史料や寺社の伝歴などをまとめたと云われていますが、作者や成立時期は不明です。原本は非公開、江戸後期の嘉永年間に当地の僧が書写したものが現存しています(昭和50年出版)。それ故に偽書と極言した学者もいたそうです。もちろん俄かには信じ難いのですが、それはそれ。何とも浪漫漂う話ではあると思いますし、土佐にもあったんだ!と内心喜んでいます(笑)
ちなみに同書によると正勝の墓は八幡寺の近くとあり、掲載の写真から推察してみました。手持ちの書物によれば鯨坂八幡宮の別当寺だった八幡寺は明治初年に廃寺となっています。GOOGLE地図で「33.529027,133.280554」座標を検索して下さい。地図上のA地点から南へ入る小道の近くかと。帰郷した時に探してみようと思っています。南帝さんも楠木正勝の墓を取材しておられましたが、こちらもコレクションにお加え下さい。私もまた年内には十津川の武蔵へ再び行く予定ですので「公式墓」にも参ってきます。
また、正顕の墓は当地の胡摩ヶ坂の地蔵尊堂との事。大字小字などの番地化によって現在の地図やWEB上では容易に特定できませんでした。

いや~やはり本は最後まで読まなければなりませんね!(笑)
以上、長文駄文で申し訳ありません。

Re: ご無沙汰です。

> お元気ですか? ついに梅雨入りしましたね。
気がついたら梅雨が開けていて、猛暑になっていました!
日々ぐったりしています…。

> 「土佐太平記」(明神健太郎・著)
> 楠木正勝・正顕父子が登場しているのです。
ほほぅ!それは耳寄り。大阪の図書館には…さすがにないですな(笑)。

> 河間郷に帰郷します。時に応永26年(1419)との事です。
時代的には合いますね。

> また後裔の一人に福留隼人があります。
「福留の荒切り」の人ですか?福留親政か儀重か…。
けっこう先祖がわからないのですな。橘氏か。

> 片岡氏によって滅亡。
許せんなぁ、片岡氏!畿内の片岡氏は護良親王に従って転戦した
立派な勤皇方だったというのに(笑)。

> 土佐にもあったんだ!と内心喜んでいます(笑)
南朝研究の魅力ですなぁ(笑)。史学的な理論武装も必要ですが、
それだけで片付けられんところがとてもいい。

…近所に"横倉"って文字があるのが気になりますけどね(笑)。

> 正勝の墓は八幡寺の近く
> GOOGLE地図で「33.529027,133.280554」座標を検索して下さい。
これは掘り出し物!来年は四国突入を考えているので、行きますわ(笑)。
とりあえず、楠木史蹟地図にマーキングしておきました。

> 正顕の墓は当地の胡摩ヶ坂の地蔵尊堂との事。
ぜひに探し出したいものですなぁ。

耳寄りな情報、ありがとうございます!
必ず行ってきたいと思います!
めまいがするほどの暑さが続きますが、お身体充分にお気をつけて。

 

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土佐太平記について

土佐太平記のネタ本となった八幡荘伝承記は現在では偽書とほぼ断定されており、高知県内の郷土史研究者でこの文書を資料として使う人はまずいなくなっております。そして、かつて本物と信じ、南北朝期の土佐の武将達の動向を知る貴重な資料として使った郷土史家の人達も今では口を硬く閉ざしてこの文書について触れようとはしません。この文書の文中には例えば、”当郷役場”とか、”敵の死骸の数を見物”や”健康”・”皇軍””武術を教練””教養”その他、中世には絶対あり得無い表現、明らかに現代の言葉が数多く見られ、恐らく昭和初期あたりに偽造されたものと言われております。

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