南帝ラヂヲ

南朝・後南朝に関連する史蹟の現状を保存していきます。

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三河吉野朝(2)

2010 - 10/26 [Tue] - 22:49



三河吉野朝歴訪2日目は、レンタカーを借りての旅です。まずは渥美半島を目指します。古来より渥美半島は紀伊半島と海路で結ばれていました。鎌倉時代の東大寺再建の折には、伊良湖岬で瓦を製造して大和に運んでいました()。現代でも伊良湖岬と鳥羽の間をフェリーが結んでいます。

そして南北朝時代当時も、数多くの南朝の人々がこの海上ルートを伝って行ったことでしょう。特に有名なのは、義良親王や北畠親房が東国経営のために伊勢より出航したものです。遠州灘沖で嵐に遭って船団は散り散りになってしまいましたが、義良親王が渥美半島に近い篠島に漂着するなど、多くの南朝人士が上陸した可能性が高いです。この事実を前提にすると、渥美半島には三河吉野朝伝承の原型のようなものがあると思われます。期待に胸踊らせながら渥美半島に向かいます。


車神社
豊橋駅から国道259号線を車で15分ほど、植田橋を渡ったたもとの集落に坐ます。境内がなかなか広い大きな神社です。三河吉野朝伝承によると、後醍醐天皇第十二皇子・聖助法親王が付近の植田で亡くなられ葬られたのでお祀りしているそうです……が、まぁやっぱり何もないね。しかし本殿背後に古墳時代の古墳があり、その当時から開けた土地であることを示しています。


長慶寺
車神社から15分ほどで着きます。境内墓地の無縁仏の後ろに五輪塔があります(写真最左)。風化して銘も読めませんが、これが目当ての弘仁太子の墓だと思われます。案内看板によると、弘仁太子は土御門天皇の皇子で東国に赴く途中、元久2年(1205)この地に来て居住し17年後に切腹した、とのことです。しかし寺名とも相俟って、太子は長慶天皇(長慶院法皇)であるとの説もかなり有力なようです。貴種流離譚の典型です。しかし、後南朝的なにおいが濃厚に漂っていました。


久丸神社(写真中左)
長慶寺よりまたまた15分ほど、渥美半島の中心都市である田原市街に着きます。国道259号線の郷仲交差点を北に曲がります。100mほどで左手に神社があります。これが久丸神社です。客観的には何の変哲もない神社です。祭神は"久丸明神"、正体がよくわかりません。一説に継体天皇の皇子とも云われていますが、根強いのは、南朝の皇子だとの説です。

伝に曰く、足利幕府に追われた南朝の久丸皇子が楠九郎太夫と共に当地に来てそのまま住まわれた、とのことです。久丸神社の神主を代々務めてきたのが楠氏だということもこの説を後押ししています。三河吉野朝伝承では松良親王となっています。管理人はこの久丸皇子こそ一連の三河吉野朝伝承の原型と考えています。先の長慶寺の弘仁太子との同一性も気になるところです。かなり身分の高い南朝関係者が渥美半島に来たことは確かだと考えます。


霊山寺
足利義政に取り入って権勢を揮った烏丸資任が、応仁の乱を避けてその所領であった伊良湖岬へ移り住みました。後に「潔堂義俊」を勧請して一寺を開きます。これが霊山寺です。資任は当地で死没し、縁深いこの寺に葬られました。墓は隣りのグランドの隅に"烏丸の墓"として遺っています(写真中右)。因みに案内看板で「烏丸」と呼び捨てられていて、ちょっと噴きます。


常光寺(写真最右)
霊山寺より県道2号線を南へ下ること10分のところにあります。門前に蘇鉄が植わっていたりして、やや南国気分です。寺名からもわかるように楠木正勝が開基となった七つの常光寺の一つで、最初に開かれたのがこの常光寺と云われています。

すなはち、正勝は渥美半島に脱出し小久保輝信と名を変えて潜居しました。小久保は先の五井八面神社付近の地名が小窪といったことに因んでいる、という説もあります。伊良湖に下ってきた烏丸資任と三河吉野朝を盛り立てますが、退勢挽回しえず、長禄年に95歳で死去、埋葬されます。後に烏丸資任は「傑堂能勝」を勧請して一寺を建立しました。これが常光寺です……ってあれれ?正勝が死んでから建てられたの?じゃあ七常光寺は誰が建てたのかね!寺伝には、応仁2年に烏丸資任によって「潔堂義俊」を開山として開かれたとあります。恐らく事実はこれのみでしょう。


結局、当初期待していたほどの収穫はありませんでした。だからといってこの地の南朝伝説が一切否定されるものでもありません。あれこれと想像ができるという意味では、なかなか楽しい土地です。もっといろいろ知識をつけて再訪したいです。

 

遠征お疲れ様でした!(遅ればせながら)

やはり勉強になりますね!
知らなかった遺蹟がたくさんありました。
もちろん、その遺蹟の真偽はどうであれ、レポを拝見しただけでも後南朝のにおいがプンプンと(笑)
何らかの痕跡が残っているというだけでも満足です。
時に我々は歴史の真偽を知りたがるという癖が出ます。
しかし、それがハッキリしないからこその歴史浪漫でもあると思います。
それを想像するのも至福の時。
とは言え、本当は知りたいのですが・・・(笑)

既にご存じとは思いますが、光福寺の前住職であられた秋田殖康さんの「悲惨 後南朝皇胤 三皇子の苦悶」が出版されています。
氏の前著などのダイジェストとしても興味深い内容なのですが、更に興味をそそるのは過去からの熊野市側の対応です。
氏の主張や地元に伝わる伝承を権力側の視点から全否定する、否、一笑に付したような対応や熊野市史での記述・・・いかがなものでしょうね・・・。
こういった形でこれまでも伝説を単なる「伝説・伝承」として扱い、ろくに調査もしなかった例は各地にあるのでしょうね。
後南朝も然りで、そういった扱いであるが故に忘れ去られていった例も多いのではないでしょうか。
由々しき事であると同時に哀しい事でもありますよね・・・。

忘却の彼方に行ってしまう前に、今残っている事実を記録として留める事は今を生きる者の義務なのかも知れませんね。
そういう意味においても、河陽南帝様のレポも貴重な記録として讃美を送り、今後とも楽しみにする次第です。

(今回も乱筆乱文にて失礼いたしました!)

Re: 遠征お疲れ様でした!(遅ればせながら)

> 知らなかった遺蹟がたくさんありました。
知ってるほうがおかしいですよ(笑)。

> とは言え、本当は知りたいのですが・・・(笑)
同感ですわ。知りたくないような、知りたいような(笑)。

> 「悲惨 後南朝皇胤 三皇子の苦悶」
買いました(笑)!安かったので衝動買い。
腰掛石とか赤松塚の位置がわかったので、また機会があれば
行ってみたいと思います。前回は探し当てることができなかった。

> 過去からの熊野市側の対応です。
これはまぁ税金を使っての市史作成ですから、根本史料に基づいたある程度
客観的な説を記述していかないといけないというのは、やむをえんと思います。
しかしただ否定に終わるのではなく、参考資料として、光福寺側の主張も載録して
もらえたらよかったのに、とも思います。

> 今残っている事実を記録として留める事
そうなんですよ。だから三河後南朝というアヤシイ伝説もこの目で確かめたく
なるわけです。そしてその伝説が地元で大切にされていることがわかったら、
この上なく嬉しくなるのです。

> 河陽南帝様のレポも貴重な記録として讃美を送り、今後とも楽しみにする次第です。
ありがとうございます!あと2回ほど三河後南朝の記事が続きますが(笑)。

 

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