南帝ラヂヲ

南朝・後南朝に関連する史蹟の現状を保存していきます。

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遠州南朝伝説

2011 - 01/11 [Tue] - 22:59



三河吉野朝伝説を訪ねた次の日は、静岡県遠江地方まで足を伸ばします。


井伊谷宮(写真左)
浜松駅からバスで50分ほど乗り「神宮寺前」で下車します。ほんの5分ほど歩いたところに、官弊中社・井伊谷宮が鎮座坐す。祭神は後醍醐天皇の皇子・宗良親王です。親王は主に中部地方で活躍しました。時折吉野へ戻ることもありましたが、後半生の大半を信濃・遠江で過ごし、元中2(1385)年頃に薨じました。記録によるとこの井伊谷で亡くなったということで、宮内省治定墓も本殿の裏手にあります()。

井伊谷は、三河から続く姫街道(国道362号線)の気賀宿からわずか2kmほど北へ行った場所にあります。名称からはかなり狭い土地を想像していたのですが、実際には明るく開けた広い盆地でした。井伊氏が平安時代から勢力を維持してきたのも頷けます。同時にこのような勢力に目をつけた南朝の慧眼には驚くばかりです。

また今回は時間の都合上参れませんでしたが、さらに奥地には、方広寺があります。開山は無文元選禅師、後醍醐天皇の皇子です。禅師は一説に花園宮満良親王の後身であるとも言われています。そのような南朝にとって重要な人が井伊氏の分家の招きに応ずるというのは、南朝がこの地を重要視していたからと考えてもよいかもしれません。


上臈塚(写真中左)
バスで気賀駅へ出て、天竜浜名湖鉄道で西鹿島まで行きます。ちなみに姫街道は気賀から県道261号線になって南東へ方角を変え浜松市内へと向かいますが、国道362号線はこの鉄道に併走して遠州北東部へと続いていきます。西鹿島からはさらにバスで山東まで乗ります。この山東は、国道362号線と信濃からくる国道152号線が交叉する地です。また、天竜川と二俣川が出会う水運の要衝でもあります。バスの終点から徒歩で国道152号線を10分ほど歩くと、道端に小さな塚があります。これが上臈塚です。

説明看板によりますと、長慶天皇の第一皇女・綾姫がこの地で亡くなったので、塚を築いて葬ったと伝わっているようです。何となく三河吉野朝伝説を想起させます。尤も、その推定の根拠が三河吉野朝伝説の元となる文書なのでやむを得ないのかもしれません。

ただ。国道152号線は秋葉山を経てはるか信濃の大川原に続いています。宗良親王が征旅の大半を過ごした地です。ですので、ここに祀られているのが南朝所縁の人だとすると、宗良親王の関係者の可能性が高いと思われます。

なお国道362号線をそのままたどり行くと、後醍醐天皇の伝説のある京丸や、寸又峡にほど近い千頭に行くことができます。特に千頭は、八幡船で高名な海賊大石氏の本拠地でした。この大石氏には南北朝期に池田教正の息・を婿に迎えたとの伝説があります。実否はともかく、千頭の地が南朝の影響下にあったことを伺わせる伝説だと思います。


了願公園(写真右中)
西鹿島駅より遠州鉄道でいったん浜松駅に戻り、再度バスに乗り、今度は東へ向かいます。15分ほどで「安間」バス停に着きます。そこから徒歩で国道1号線を越えたところに小さな公園があります。これが了願公園です。

何やら仏教めいた名前ですが、人名に由来します。興国年間において、南朝は楠木正行が中心となって攻勢に出るわけですが、常に正行に付き従って活躍した武将が「安間了願」でした。その正体は楠木一族とも淡路の水軍だとも云われますが、この地方の伝によると、元中年間に了願が来て天竜川沿いのこの地を開き、ゆえに地名も安間と称するようになった、と。代々その子孫が名主を務めていたが、平成になって屋敷跡地を市に寄贈して公園に整備し、祖先の了願を記念して了願公園となったとのことです。

安間了願も様々な伝説がある武将です。個人的には楠木氏と通婚した淡路水軍だと考えていますが、この近隣の勢力だったとすると、楠木氏の駿河出自説を補強する材料となりそうです。尤も開拓が元中年間とのことですから、一族が畿内から下ってきたとも考えられます。

そして了願公園の前の小道が気賀宿から続く姫街道なのです。先の県道がこの安間で東海道に接続します。街道自体は江戸時代に整備されたものでしょうが、それ以前の時代に原型が作られていたのではないでしょうか。姫街道は、まさに南朝ルートと呼ぶに相応しいと感じました。


大歳神社(写真右)
了願公園より北西へ歩いていきます。この日も炎熱地獄でしたが、史蹟がさくさく見つかるのに気をよくして、汗を拭き拭き歩いていきます。安間川に沿って30分ほど歩くと、壁に「天王町」と書かれた建物が目立ち始めます。その一角に、かなり広い境内の神社があります。これが大歳神社です。

延喜式内社といいますから創建は平安時代以前、社伝によると景行天皇の御代にまで遡るそうです。この神社が後南朝とどう関わっているのでしょうか。それは祭神を見れば一目瞭然です。すなはち、主神の他に長慶天皇・後醍醐天皇・後村上天皇・亀山天皇・後二条天皇をお祀りしているのです。

なぜに大覚寺統の天皇たちが祀られているのでしょうか。曰く、吉野を逃れ出た長慶天皇は遠州に落ち延び、この地に潜居したと伝わります。なのでこの一帯を後世、天王町と呼ぶようになり、また南朝天皇をお祀りするようになったということです。ちなみに長慶天皇の子孫は昭和の御代にまで続き、我こそは天皇なり!と主張しました。自称天皇の一人「竹山天皇」がこれです。

自称天皇絡みなので、あまり信が置けないかもしれません。しかし安間と川一本で結ばれた水運のよさと古来からある神社の存在は、高貴な落人が匿われるには絶好の地と言えましょう。楠木氏関係者が付き添うような、高位の南朝関係者がいたのかもしれません。またこの辺りに真田大助が逃れて来たとの伝承もありました。敗れた逃亡者を受け入れ匿う気風があった土地だったのかもしれません。

 

春遠からじ。

いよいよ如月も終わろうとしていますが、お元気ですか?
あいにくの雨ですが、これも春の足音かも知れませんね。
こちらも「春遠からじ」となって欲しいものですが(笑)

今回も興味深いレポ、ありがとうございます。
お!出ましたね、池田教正(笑)
例の内藤満幸が気になっていたので、あれから少し調べてみました。
とは言っても例によって浅学なので、既知の内容ばかりかも・・・。
内藤満幸は「能勢の三惣領」といわれた野間庄の領主であり、内藤伊賀守あるいは内藤右衛門尉とも称していたようですね。
確かに野間には伊賀殿館とも呼ばれる、野間館が野間城の麓にあります。
いつだったか野間城を訪れた時に遺構もありました。

この地域での内藤満幸が表記される史料としては、能勢氏菩提寺でもある清普寺所蔵の「伊丹氏系図」や同地の内藤氏所蔵の「内藤氏系図」などがあります。

この「伊丹氏系図」によれば、元亨2年5月に鎌倉幕府の命で楠正成と共に紀州・安田庄へ討伐に赴いた藤原重継が、元弘元年には再び楠正成の軍に属して幕府討伐戦に参加。
その功で大和守に任ぜられ、伊丹兼列(かねつら)と名を改めています。
後に兼列は足利尊氏に荷担しようとし、事前に察知した楠氏の館で殺害されたそうです。
兼列に子がいなかったので、家臣が相談して池田教正の次男を養子に迎えて伊丹兼正としたといいます。
この伊丹兼正の部分に楠正行が内藤満幸の娘を娶って後に池田教正となる子を産んだ件が出てきます。
後に「摂津三守護」となる伊丹氏と池田氏の関わりが興味深いですよね。
また「内藤氏系図」にもほぼ同様の記述があります。
ちなみに内藤氏も藤原氏を起源としており、「満」が通字のようです。

ただ少し気になるのは年代的な事です。
伊丹兼列の没年は不詳ですが、殺害されたのは足利氏と新田氏の確執の頃といいます。
内藤満幸が足利方となった事を憤った楠正儀が正行の未亡人を内藤家へ帰らせた時に、正行の子(後の池田教正)を宿しており池田教依と再婚後に生まれています。
正行が戦死したのは正平3年正月5日ですから、その年内の出来事と考えられます。
そこまで10数年ほどの期間でしょうか。
そこで生まれた池田教正の次男を養子としているので、更に10数年はかかると思います。
という事は、伊丹兼列の死後、かなりの期間が空いてからの養子縁組・・・。
また、伊丹城主の伊丹氏は「親」が通字であり、伊丹市史や豊能町史などにも「兼」を通字とする同族が見当たらないような・・・。

内藤氏については、おそらく野間氏あるいは同族などの別名であった可能性もあるかと。
内藤姓は満幸以外には永らく名が見えないようですが、近代の史料には見えますし、現存していらっしゃいますので。
また、丹波の内藤氏との関連もあるのでしょうか。

先述の通り、例によって例の如く「ざっと考えてみた」程度なのですが(笑)

「能勢の三惣領」の一つである能勢氏の起源には諸説ありますが、南朝と関連したものもありました。
能勢氏といえば多田源氏・源満仲の子孫ですよね。
満仲から9代目の多田入道頼定は後醍醐天皇に奉仕して笠置や八幡を転戦、後には脇屋義助に従って伊予・讃岐で戦うも敗れました。
備前の浜野に隠住しながら兵法を説いて「勤皇の大義」を講じていましたが、備前守護・赤松氏に攻められ敗北しました。
後に再び同地に帰り近郷を従えましたが、この時に下向して法華経を弘布していた後醍醐天皇の第三宮である大覚大僧正に信頼され、頼定もそれに応えるべく奮戦しました。
その勇武に感じた敵の足利尊氏は旧領復帰などを条件に降伏を勧めます。
しかし頼定は感謝しながらも「自身は帝の為に最期まで戦うが、子らは足利氏に仕えさせ「能勢」姓に改めさせるので宜しく頼む」旨の返答をして自刃しました。
意気に感じた尊氏は子に能勢の旧領や備前・丹波の新領を与えました。
子らは頼定の菩提を弔う為に備前・浜野に松寿寺を建立します。
後の戦国期に子孫である能勢頼次が所領を失い流浪の身となった際、この寺に滞在します。
その頼次が能勢に復帰すると領内全てを半ば強制的に法華宗に改宗させました。
もともと真言宗が主流だった能勢は、戦国期の高山右近の領有によりキリシタンに改宗させられ、更に江戸期の法華宗改宗となったわけです。
今でも「能勢のいやいや法華」という言葉が残っています・・・。

話が脱線した感もありますがご容赦下さいね(笑)
以上、浅学かつ乱文にて失礼いたしました!

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