南帝ラヂヲ

南朝・後南朝に関連する史蹟の現状を保存していきます。

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新田義貞伝説

2008 - 12/17 [Wed] - 03:05

しっぺ由定橋
櫨原義徳トンネル
岐阜県大垣市から国道417号線が北へ伸びています。終点は福井県南越前町となっているのですが、国道自体は全線開通しておらず途中で林道に変わるという、いはゆる"酷道"になっています。しかしこの道は、南北朝当時は越前と美濃を結ぶ重要な道でありました。

ところでこの道の終点である南越前町には、越前南朝方の有力豪族である「瓜生氏」の本拠地がありました。その中心が杣山城です。湊川で敗れたあと、宮方の敗北は決定的となりましたが、新田義貞らは越前に走って勢力の回復を図りました。そこで頼りにしたのが瓜生氏でした。

しかし越前には足利一門の斯波高経が派遣され、新田義貞らと死闘を繰り広げます。瓜生氏の力もあって義貞らも健闘しましたが、結局力及ばず敗退します。史実では義貞は灯明寺畷にて討ち死にし、舎弟・脇屋義助ら残兵は美濃方面に逃走し、吉野へと逃れ去ったことになっています。

ところが伝承によると、義貞は灯明寺畷で死んだことにはなっておらず、冠山峠を経て美濃へと逃れています。そうしてこの櫨原(はぜはら)の地に潜みました。捲土重来を企図していましたが軍資金に目がくらんだ村人たちによって襲撃され、同地の白山神社の杉の木に登って金をばら撒いた後、短刀をくわえて飛び降りて自決してしまいます。なおばら撒かれた金はすべて金の蚕に変じて北の「しっぺ谷」に逃げていったそうです。

その後、しっぺ谷から突風が吹くたび、村は火事に見舞われます。これが7度に及ぶにいたり、やはり新田義貞の祟りであろうということになり、村人たちは墓を建立してその霊を慰めることにしました。しかし新田義貞ということが幕府に知れたら困るということで、墓碑銘には「仁田四郎由定」と刻んだのです。以来火事はやんだということです。

平成の世になり、この地は徳山ダムの底に沈んでしまいました。現在では櫨原義徳トンネルを抜けた先にある「シッペ由定橋」にのみ、その名を留めるに過ぎません。ただひょっとしたら渇水が起こって湖底が現れたら、仁田四郎由定の墓も見えることになるかもしれません。

もちろん新田義貞の墓というのは伝説の域を出ないでしょう。しかしこの櫨原から南へ6キロほど行ったところに、根尾方面への分岐点があります。この根尾には南朝に味方した豪族がおり、越前を逃れた脇屋義助が根尾城に入って美濃守護の土岐氏と戦火を交えたことは、大友文書等によって史実と認定されています。つまりは新田一族の誰かがこの櫨原で亡くなり、それが義貞に昇華したものと思われます。

 

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