南帝ラヂヲ

南朝・後南朝に関連する史蹟の現状を保存していきます。

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福西灌頂寺

2009 - 04/25 [Sat] - 12:35

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柿本人麻呂の歌や又兵衛桜で有名な大宇陀の東部に、福西という集落があります。とりたてて目を惹くような村ではなく、どこにでもあるようなところです。健民グラウンドの前で左折し、集落内へ入ります。車で5分ほど進むと今度は右折、少し行くと雑木の生い茂る小山があります。その前に新しい案内看板が設置されています。ここが灌頂寺です。

南朝編年記略、正平9(1354)年9月条に「十五日入道准三宮親房薨於和州宇陀郡福西荘灌頂寺阿弥陀院六十二歳当時賢才上下惜悼之」とあります。この福西荘灌頂寺阿弥陀院が看板の立っているあたり、すなはちここは北畠親房が亡くなった場所なのです。

北畠親房は公式には賀名生華蔵院で死んだとされ、その址に墓も建っています。しかしこの宇陀の地も相応に有力なのです。

宇陀郡は伊勢と境を接し、伊勢国司たる北畠氏にとっては、領国の安定や京を睨む意味でぜひとも押さえておきたい戦略的要衝でした。そのため早くから勢力を扶植していたようで、関係する遺跡も集まっています。北西の地には親房の娘たる新陽明門院の笠間山陵があり、また南東の宇太水分神社の神宮寺には三男顕能が梵鐘を寄進した事実があります。北東の室生寺には親房の供養塔もあります。

南朝編年記略は江戸時代の編纂物ですので、根拠史料とすることはできません。しかし何を参照したかによっては、この福西の地が没地となる可能性も高くなります。宇陀郡はそれほどに北畠色が濃く残る土地でした。

 

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小倉御前の墓

2009 - 04/01 [Wed] - 23:33

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赤穂市坂越は瀬戸内海に面して海上交通の便が良かったため、赤穂城下よりも早くから開けていました。現在でも江戸時代の町並みを色濃く残し、"坂越町並み保存館"を中心に保存に努めています。

その保存館の裏手に一群の五輪塔が残されています(写真左)。傍に説明看板が設置されており、「小倉御前の墓」と記されています。小倉御前とはすなはち小倉宮、つまりこの墓は後南朝皇子の墓なのです。この墓にはどのような伝承が語り継がれているのでしょうか?

曰く、後亀山天皇の皇子であった小倉御前(小倉宮)は京都嵯峨野に住まいされていましたが、足利幕府との抗争のなか危険を感じ、この坂越に隠れ住みます。しかし幕府の勢威ますます盛んとなり、ついに探索の手が坂越にも及んできたために望みが絶たれたことを悟って坂越浦の御前岩にて海中に身を投じてしまいました。民は悲運の皇子に同情して墓を作って供養し、また船祭りに際しては御前岩にもお供えをしてきたそうです。

後南朝皇子がいたかどうかの実否は同時代史料で裏付けられない以上判りません。しかしこの坂越という土地に南朝伝説が成立する素地がありました。

この墓の近くに大避神社があります。祭神は秦河勝です。往時、秦河勝が坂越に流れ着いて死んだために、沖合の生島にその遺骸を葬り神として祀ったということです。秦河勝は渡来人の総元締めのような人物で、能楽の生みの親とも言われます。そして楠木氏は一説、渡来人の血を引いて秦河勝の一族とも言われ、南朝伝承との親和性は非常に高いものがあります。

さらに大避神社の鎮座する山を登ると5分ほどで五輪塔に行き着きます(写真右)。これが児島高徳の墓とされています。あるいはそこより40分ほど歩くと、和田範長の墓に着きます。児島高徳・和田範長の詳しい説明は省きますが、両者は親類で、ともに後醍醐天皇に味方した勤皇の一族です。恐らく和田範長が当地で敗亡し、そこから児島高徳や小倉御前の伝承が派生したものと考えます。実際、児島高徳と後南朝皇子がセットになった伝承は他でも見られます。修験道の影響があるのかも知れません。

 

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