南帝ラヂヲ

南朝・後南朝に関連する史蹟の現状を保存していきます。

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平泉寺白山神社

2009 - 06/24 [Wed] - 02:37

1245778623-平泉寺8.jpg1245778623-平泉寺2.jpg1245778622-平泉寺楠木正成碑2.jpg

福井市より国道416号線を東へ1時間ほど走ると、勝山市に着きます。越前大仏の大伽藍や勝山城の復元天守閣のある辺りが平泉寺町で、案内看板に従って進むと、趣のある社前に出ます(写真左)。これが平泉寺白山神社、全国白山神社の総元締めであり、また多数の僧兵を擁して越前の趨勢に大きな影響力を及ぼしてきた平泉寺の跡地でもあります。

境内は杉木立が生い茂り、また拝殿・本殿のあたりは一面苔に覆われていて、夏だというのにとても涼しげな気配です(写真中)。日本の道百景に選ばれただけのことはあり、これだけでも一見の価値があります。

参道はさらに奥へと延びており、そちらへ歩を進めます。石段が施された真っ直ぐな道を登ると、突き当たりに御堂が見えてきます。その御堂のやや手前左手に、高さ1.5mほどの石塔が建っています(写真右)。これこそが平泉寺の楠木正成供養塔です。

平泉寺は鎌倉幕府が滅ぶ際には付近の北条一族を攻撃したりもしましたが、特に南朝方というわけではありませんでした。むしろ新田義貞に背いて足利方の斯波高経に味方しています。楠木正成の供養塔を建てる道理がありません。

当時、平泉寺には恵秀と名乗る僧がいました。ある日、恵秀が勤行しておりますと、眼前に甲冑武者が立ちました。そして武者は恵秀に、自分は正成で討ち死にしたことを告げます。果たしてその日は湊川の合戦が行われた日でした。恵秀はその後すぐに正成の供養塔を建てたということです。以来この石塔は大切に供養され続けてきました。永享6年作の平泉寺縁起にも書かれています。

ところで正成はなぜ一介の僧である恵秀の前に現れたのでしょうか。その答えは恵秀の正体にあるようです。

この恵秀、実は楠木一族でありました。それも正成の弟(あるいは甥)という非常に近しい関係でした。もっともこれは伝承ですので、本当にそのような関係にあったかは定かでありません。しかし周辺部の伝承から楠木一族がいたことは間違いなさそうです。

恵秀が楠木一族としても、ではなぜ平泉寺にいたかという疑問がまだ残ります。越前と河内の関係が見えにくいからです。

そこで、恵秀は河内楠木氏出身ではなくて、他の地域の同族出身ではないかとの考えが起こるわけです。水原一氏は、平家物語延慶本に登場する橘次郎大夫則次に注目しました。楠と称していたからです。則次は加賀に住んでいたことから、加賀橘氏と河内楠木氏の同族関係をほのめかしています。

興味深い見解ではありますが、南北朝期における加賀橘氏の消息が不明ですので、まだまだ調査が必要でしょう。



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昌寿院

2009 - 06/08 [Mon] - 15:18

1244441882-昌寿院1.jpg1244441884-昌寿院4.jpg1244441883-昌寿院2.jpg
嵯峨嵐山や保津峡を抜けると、丹波の国です。そして山陰道から京都に入るときに要衝となるのが亀岡です。戦国時代には丹波を平定した明智光秀が亀山城を築いていました。重要な戦略拠点であったことはどの時代でも同じでした。なかでも源氏は早くから領地としていたようで、頼政塚や篠村八幡宮などがあります。

ちなみに篠村八幡宮は、鎌倉幕府より船上山の後醍醐天皇討伐を命ぜられた足利高氏が、北条氏に反旗を翻すことを明らかにした地でもあります。ここより軍を反転させ、一気に京の六波羅探題を陥として幕府は滅亡へと向かうことになります。

このように亀岡は足利氏の土地との印象が強かったのですが、篠村八幡宮の目と鼻の先に楠木氏に関係する遺蹟がありました。それが昌寿院です(写真左)。

亀岡駅より東南の方向に徒歩で15分ほど行くと、年谷川のほとりに昌寿院があります。普通の寺のようですが、山門には菊水紋が刻まれてあります(写真中)。境内には五輪塔があり、"関家"と刻まれてあります(写真右)。この関家の先祖が関正世といい、楠木正時の子と云われています。

伝に曰く、南北朝の抗争が激化したために、楠木正時は妻を実家の関氏に帰しました。妻は懐胎しており、この地で男子を産みます。これが関正世です。関氏は以降もこの地に居住していました。なのでこの地は"楠屋敷"と呼ばれていました。

しかし戦国時代末期、明智光秀が丹波平定にやって来ます。関氏は正則の代でしたが戦火に巻き込まれて楠屋敷も焼亡してしまいました。その後亀山城築城に際して城下町の整理が行われ、この地には昌寿院が建つことになったのです。

楠木正時に関する伝承は少なく、その意味でここは大変貴重な場所と言えましょう。



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