南帝ラヂヲ

南朝・後南朝に関連する史蹟の現状を保存していきます。

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足利義教の墓

2009 - 09/25 [Fri] - 15:05

1253858705-播磨安国寺.jpg1253858704-足利義教首塚1.jpg1253858702-足利義教首塚2.jpg

赤松政則の墓のある長円寺より20km程度東に、加東市新定という地があります。中国縦貫自動車道ひょうご東条インターから車で10分ほど南西に走ると、播磨安国寺があります。安国寺は正式には安国寺利生塔と言い、足利尊氏・直義兄弟により一国一塔を目して建てられました。南北朝の争いで亡くなった人々の冥福を祈るための寺でしたが、足利氏ゆかりの寺と言えます。

嘉吉元年(1441)6月、赤松満祐は将軍足利義教を自邸に招待しました。関東での永享の乱の終息や、弟の大覚寺義昭が日向で討ち取られたことに対する祝宴との名目でしたので、義教はわずかな供回りを連れたのみで赤松邸に入りました。邸内の池には子鴨たちがかわいらしい姿を浮かべ、能が催され、大杯が行き交います。そうして宴も酣となった頃、忽然大きな音が轟きます。どんよりとした曇天だったため雷の音かと思うや、突如武装した兵士たちが会場に乱入してきました。義教は一撃で倒され首級を挙げられてしまいました。万人恐怖、薄氷を踏む時節と言われた将軍独裁の世を作り上げたキレ者義教のあっけない最期でした。将軍犬死と評された暗殺事件、嘉吉の乱の勃発です。

首尾よく義教を討ち果たした満祐はしばらく自邸に留まり幕府の出方を伺いました。しかし混乱の極みにあった幕府は何ら有効な手が打てません。見極めをつけた満祐は、自邸に火を放ち義教の首級を先頭に播磨へと下向していきました。その後、播磨城山城に立て籠もって討伐軍と戦い赤松宗家はいったん滅亡したことは以前に触れた通りです。

ところで義教の首級はどうなったのでしょうか。その所在には二説あります。一つは、播磨下向途中で立ち寄った摂津崇禅寺に置き捨てていったという説。そのため崇禅寺は五輪塔を有し義教の菩提寺となっています。もう一説は、播磨に戻ったあと、この播磨安国寺にて盛大な法要を催したというものです。その後、首級は幕府方に返されたとかで、この安国寺にあるのは供養塔となっています。安国寺の境内から少し離れた裏手に、苔むした塔が建っていました(写真)。

南北朝・室町時代を通じて、時代の趨勢を決してきたのは赤松氏でした。実に興味深い一族です。



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赤松政則の墓

2009 - 09/17 [Thu] - 04:09

1253128143-長円寺.jpg1253128142-赤松政則墓.jpg1253128144-性海寺3.jpg

兵庫県加古川市の北部に加西市があります。市役所のある旧北条町市街より県道410号線が西に伸びており、車で5分ほど走り福居町公民館の手前、案内看板に従って細い道を入っていくと、小さな寺に着きます。これが長円寺(写真左)です。

本堂左手より裏山を少し登ります。木の根元に2基の五輪塔が寄り添うように建っています(写真中)。何も表記がありませんが、これが今回の訪問の目的です。すなはち、赤松政則の墓です。

赤松政則は、偏諱の"政"を見てわかるように足利義政の時代の人物です。康正元年(1455)に生まれ、幼名を次郎法師丸と言いました。そして京都建仁寺で養育されます。それには理由がありました。

政則の父は赤松時勝(法名性存)、赤松義雅の子でした。この時勝がまだ千代丸と名乗っていた幼少の頃、赤松家に一大事件が勃発します。赤松義雅の兄・満祐が将軍足利義教を暗殺したのです。いはゆる嘉吉の変(嘉吉元年・1444)でした。

赤松家は幕府軍に攻められ、播磨城山城で満祐が自害して乱は終息します。その際、義雅は息子の千代丸を連れて、幕府軍にいた一族の満政のもとに出頭し自害しました。満政は遺志を汲んで千代丸を匿います。千代丸は三条家次いで建仁寺に預けられます。

かくして千代丸は建仁寺で育てられ、長じて時勝となります。寺の外では満政をはじめとする赤松一族・遺臣がお家再興の戦いを繰り広げていましたが、播磨の新守護・山名持豊(宗全)の前に敗れ去ってしまいます。そして時勝は次郎法師丸をもうけますが、その後ほどなく死んでしまいます。こうして次郎法師丸は建仁寺で育てられることになるのです。

ところで次郎法師丸が生まれた康正元年周辺は、後南朝が神璽を擁して正統性を主張して、大和・紀伊で活発に活動している時期でもありました。幕府にとっては畿内の安定を欠く目障りな存在だったことでしょう。赤松遺臣たちはそこに目をつけます。三条家を通じて幕府に、神璽の奪還と後南朝の討滅を自分たちの手で行うことを申し入れます。首尾よく成し遂げたあかつきには、赤松家の復興が約束されていました。

そして長禄の変(長禄元年・1457)が起こります。この時には神璽は奪えなかったものの、翌年、小寺性説により神璽が京都にもたらされます。これで悲願の赤松家の復興が実現します。次郎法師丸が召し出され、名を政則と改めて加賀半国の守護に任じられます。

政則は播磨復帰を望みました。そこで山名氏との対抗上、細川勝元に接近しました。応仁の乱では東軍として活躍します。その甲斐あってか播磨・備前・美作の守護となり、念願の播磨復帰を果たしました。

ただ山名氏との抗争は応仁の乱後も続きました。重臣浦上氏の援軍の求めに応じず、自ら但馬真弓峠に山名軍を迎撃するも敗北を喫し、それがもとで浦上・小寺氏と対立、一時堺に身を避けると言った危機もありました。これが後年の戦国下剋上に繋がりますが、この時は和解が成立して政則は播磨に戻りました。

以降の政則は幕府に重きをなしていきます。細川勝元の娘(政元の妹)を娶って地歩は盤石、そして足利氏以外では初めて、従三位にまで登ります。政則は絶頂期を迎えました。

その2年後。政則は坂田荘に狩猟をします。ところが発病し、この長円寺で死去してしまいます。享年42。あまりにも唐突な死は背後に何らかの事情も伺えないこともないですが、ここでは詮索しません。

葬儀は政則が本拠にしていた置塩で行われました。その置塩城下には性海寺があり、政則の念持仏を胎内に納めた仏像があるそうです(写真右)。

後南朝にとっては敵も同然ですが、長禄の変の裏面史として採り上げました。



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