南帝ラヂヲ

南朝・後南朝に関連する史蹟の現状を保存していきます。

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玉琳塚

2009 - 11/25 [Wed] - 04:26

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楠木氏には真偽不明の系図が数多くありますが、その中の一つに「美作玉林院系図」というのがあります。岡山県津山に玉林院なる寺院があり、そこに伝わる系図のことです。

系図に曰く、楠木正成の弟・正遠が和泉和田家に入ったのが始まりです。以降、高家ー五郎ー正武と続きますが、正武には種子丸という次男がいました。正武はこの子を出家させるとして、家来の中島左近・大井田源次郎に託して高野山に遣りました。種子丸は姓名を隠して名乗りませんでしたので、寺僧が中島の中と大井田の井をとって「中井左源太」と名付けたそうです。その後左源太は僧となりたくなかったのか高野山を下山し、河内の野田宗湛の婿養子となり正種と名乗ります。しかし応永年間に難に遭って落命してしまいました。

正種には二人の子があり、その弟の方の家系が続いていきます。彼は正持と名乗り、近江甲賀郡に移住します。その子が元政で、文明年間に矢に当たって死んでいます。この文明年間は応仁の乱のまっただ中、元政も京に出陣していたのでしょうか。

文明年間からおよそ100年後、関ヶ原の合戦も終わって、戦国の世もようやく静かになってきた頃、美作の中心地である津山に、森忠政が入封してきました。忠政は、室町時代の山名氏の城を、より大規模な城に修築し始めました。しかし何の障りがあったのか、さまざまな怪異が起こります。ために工事は進まず、忠政は困ってしまいました。

そこに一人の修験者が現れます。彼はお告げをもってその怪異を鎮めていきました。おかげで工事ははかどったそうです。このため、その修験者は津山に住むことになりました。これが先の元政の後裔だったのです。慶長17年(1612)まで生き、遺言で現在の川崎町のあたりに「河内玉琳」の号で葬られました。

その河内玉琳の墓が現代でも残っていると聞き、現地に行ってみました。

JR東津山駅より北西に10分歩いたところに、バス停「玉琳」があります(写真)。すぐ傍に小高い丘があり、どうやら墓地になっているようです。玉琳公会堂から細い階段がついているので登ります。登りきったところにお堂と五輪塔(写真)や石碑が祀られてあります。石碑には「玉林院法印智観三百年紀念碑」(写真)とあります。案内看板(写真)には文化8年に200年忌とありますから、河内玉琳は法号・智観といい、この石碑は1911年に建てられたようです。地元ではかなり大切にされているようで、だんじりでは曳き手が全員山伏の姿だそうです。また津山築城400年祭でも河内玉琳行列が催されたりもしました。このように現地の人に慕われている南朝関係史蹟を見るのが、管理人はとても嬉しいのです。



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