南帝ラヂヲ

南朝・後南朝に関連する史蹟の現状を保存していきます。

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万里小路藤房伝説1

2010 - 01/17 [Sun] - 00:04

1263654244-松の露下址碑.jpg1263654243-万里小路藤房髪塔1.jpg1263654242-妙感寺3.jpg

南朝や楠木氏の伝説を語る上で外せないのが「万里小路藤房」の伝説です。彼は後醍醐天皇の側近でした。元弘の変でも天皇に付き従い、楠木正成参陣の勅使として河内に赴いたりもしています。笠置陥落の際にも天皇と行動を共にし、山城有王山下にて捕らわれました。現在その場所には、藤房の返歌に因んだ「松の下露碑」が建っています(写真左)。これにより藤房は常陸藤澤に配流され、倒幕の表舞台よりしばし姿を消します。

藤房が再びその名を顕すのは、倒幕が成功して京に戻ってからです。中納言に任じられ、さらに諸国の武士の所領関係を定める恩賞方の頭人や雑訴決断所の寄人を務めています。雑訴決断所の同僚に楠木正成がいました。数少ない武士の心情をくみ取れる公家として、公平無私に判断をくだしていたことでしょう。

しかし建武の新政は、後醍醐天皇とその取り巻きによって無残なものへと変わっていきました。そこで藤房は、後醍醐天皇に政治を正すよう直諫をします。太平記に名高い「竜馬進奏」です。しかし天皇は以前と違い臣下の諫止を受け入れることはありませんでした。藤房は新政や天皇に絶望します。そうして彼は出家遁世の道を選びました。太平記には、石清水行幸の供奉の直後に、京都岩倉にて不二房について出家、そのままいずこかへと姿を消してしまった、とあります。現在岩倉の地には藤房の髪塔が残っています(写真中)。

その後の藤房の行方は不明です。ここに伝説が生まれます。まず有力なのは、京都妙心寺の関山慧玄について法を嗣ぎ、二世・授翁宗弼となったというものです。楠木正儀により河内に招かれ、その母・久子の庵に観音寺を創建したと伝わります。晩年は自らが開いた近江妙感寺に坐して遷化、同寺に葬られました。

甲賀の地・大納言山の麓にちいさな寺がひっそりと建っています。裏手には滝が流れます。その上方には鎌倉時代に作られた地蔵の磨崖仏があります。古くから修行の場だったのでしょうか。まさに世捨て人が晩年を過ごすにふさわしい趣きです。本堂の左手に墓塔があります(写真右)。

いま一つの伝説は、吉野拾遺から派生するものです。越前鷹巣山から越後正続寺に参禅し、無等良雄(良覚)と号して出羽補陀寺に赴き、さらに陸奥正法寺に行ったとされています。秋田市内にある補陀寺にはその墓があるそうです。この他、三河・筑後・常陸などに墓があります。

藤房が興味深いのは、楠木氏との関係です。南江久子が嫁する以前の正成の妻が藤房の娘で、正行を生んだという系図があります。また、藤房の没地の側には必ずといってよいほど楠木氏の伝承が残っていました。出羽には楠木正家の子孫と称する打越氏がおり、正家の墓もあります。三河や常陸には楠木正勝の伝説、筑後には楠木正行の娘から出た楠木氏がいました。後世の牽強附会もあるのでしょうが、この伝説の背後に何があるのかを探していきたい伝説です。

 
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