南帝ラヂヲ

南朝・後南朝に関連する史蹟の現状を保存していきます。

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三河吉野朝(4)

2010 - 12/20 [Mon] - 13:12



さて、豊川市、渥美半島、蒲郡市と探訪した三河吉野朝伝説も、いよいよ最後の伝説地を残すのみとなりました。いったん豊川市に出て豊川稲荷の側を通り、国道362号線に入ります。

ちなみにこの国道、江戸時代には東海道の裏街道という役割を持ち「姫街道」と呼ばれていました。戦国時代でもかなり重要なルートだったようです。そして南北朝期も、特に南朝方に重宝されていたのでしょう。と云うのも、この国道沿いに南朝方の史蹟が点在しているからです。詳しくは次の回に譲りますが、この街道を宗良親王が往還したであろうことは確かなように思われます。今回紹介する伝説も、その流れでとらえた方がよいかも知れません。


小倉橋(写真)
豊川稲荷から国道362号線を10分ほど東に走ると、小倉橋に到ります。名前から察せられる如く、小倉宮に関係しています。伝に曰く、小倉宮良泰親王が吉野にて薨じられたので、当時大和万寿寺におられた空因親王が遺骨を奉じてこの地に到り高台に葬った、と。そしてその高台の一帯を小倉と称するようになったということです。墳墓は今はわからなくなっています。

地名からの牽強附会のようにも思えます。しかしあながち南朝と無関係の土地ではありません。後醍醐帝に三河守護を命ぜられた土岐国行がこの地に居館を築いていました。その跡地が写真の右手にあるそうです。国行は地名をとって「高井主膳正」と名乗りました。確認できる史実です。


慈雲寺(写真)
小倉橋を直進すると和田辻交差点です。この辺りは、千種忠顕の子・盛勝が落ち延びて青木和田尉と名乗って居住したところと伝わっています。右折ししばらく進むと、右手に玉川小学校があります。この西隣に小じんまりとした寺があります。これが慈雲寺です。地名からわかるように、長慶天皇や玉川宮と関係があるとされています。

すなはち、長慶天皇の皇女・綾子内親王(綾姫)は小倉宮良泰親王と結婚して空因親王を生み、後にこの玉川の地で母子共に暮らしたということです。また、この辺り一帯には京都の地名が多くあります。長慶天皇の関係者が潜幸したことに依るのかは別として、京都から高位の人が来着したかもしれないことはありえることです。なお、この寺の隣りに長谷寺がありますが、高井主膳正が大和長谷寺より十一面観音を勧請してきたのが寺の起こりということです。


広福寺(写真)
石巻山登山口の交差点脇にあります。豊橋市石巻町一帯の三河吉野朝伝説を知るきっかけとなったのは、この寺について書かれた本でした。なので南朝を前面に出した寺であろうと、ひそかな期待を抱いて向かったわけですが…何もないやん!

伝によると、この地に興福殿があり、綾子内親王が空因親王と共に住んでいたそうです。亨徳2(1452)年、空因親王が寺に改め広福寺となったとされています。説明看板かにそれを書いてくれればいいのに…。


石巻山
古くより霊山と崇められてきた石灰岩質の山です。遠くより眺めれば美しい三角形の形状をしているため、一部でピラミッドではないかとも云われています。このような山は概ね山そのものが信仰の対象となります。山頂近くに石巻神社(上社)が鎮座まします。豊橋市唯一の式内社ですので、その信仰の古さがわかります。役行者が来たという伝説もあります。修験の行場でもあったでしょう。つまりは、南朝の支持基盤であるわけです。

先の高井主膳正も、三遠国境で姫街道を押さえる絶好の地に位置するこの山を、詰めの城としていました。恐らく遠州の井伊氏と呼応して街道を守っていたのでしょう。しかし興国5()年、足利方の高師兼に攻められ、この石巻山城で自刃してしまいました。神社より山頂へ登る途中に自刃の跡地があるようです。また麓の東光寺が菩提寺となっています。


去年は美作後南朝、今年は三河吉野朝を訪問したわけですが、この二つは、たとえば京都の地名が点在しているなど、何かしら似通ったところがあるように感じました。そこでふと感じて地図で京都からの直線距離を測ってみました。すると、大雑把ですが、両方ともおよそ150kmの位置にありました。民間伝承や地名の分布にも何か法則性のようなものがあるのかもしれません。

 

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三河吉野朝(3)

2010 - 12/08 [Wed] - 13:24



午後からは蒲郡に場所を移し、その近辺の史蹟探索です。三河吉野朝伝説を纏めた本によると、現在の蒲郡市の北方に「卍山」という霊山があり、その麓の多賀の里に後村上天皇が北畠親房らと共に秘密の行宮を営んだ、ということです。卍山とは、どうやら現在の五井山にあたるようです。それゆえに、五井山の麓には無数の吉野朝関連の史蹟が遺っていると云うのです。かなりマイナーな史蹟だけに痕跡さえ遺っているかも微妙ですが、後南朝愛で…(以下略)。


正法寺(写真左)
見たところ普通の小さな山寺です。日蓮宗。門前に塚があり新待賢門院を葬ったものと伝わっていますが……どこに?!別の伝説本によるとそれらしき小山があるらしいのですが、よくわかりませんでした。ただ辺り一帯には古墳が点在していたらしいです。


不動院
三河御津府の中心とか。確かに周辺の寺院に比べて大きめで歴史も古いようです。水の神を祀っている。痕跡は…ないね。


相楽神社
蒲郡の伝説には、後村上天皇をお祀りした"兎頭神社"という社がたびたび登場します。しかしそんな名前の神社は周辺には見当たりません。位置的にはこの相楽神社が最も適しているようなので立ち寄りました。雰囲気はとても良い神社で、展望が開けていますが、それだけ…。何度も言うが、ご祭神の明記は必要だと思うんだ!


観心寺址(写真中)
御堂山の中腹にあり、もともと全福寺とその僧坊で殷賑を極めていたので、後村上天皇と北畠親房らがまず入ったところとされています。後に天皇が崩御すると、河内観心寺に因んで全福寺内にも観心寺が建立されました。現在は"さがらの森"という公園になっています。園内に"全福寺跡"の表記はありましたが、どこがそれかわかりませんでした。


西浦無量寺(写真右)
蒲郡一帯には他にも様々な伝説の地が点在していますが、時間の都合上、やや遠いところにある西浦無量寺へ向かいます。この寺は"ガン封じの寺"として有名です。駐車場より寺に向かうと、インド風の塔が出迎えてくれます()。本堂の立派さが、古寺の風格を感じさせてくれます。

伝に曰く、北畠親房発案の東国経略に同道した後醍醐天皇の皇女・灌子内親王が西浦岬に漂着しました。後にこの無量寺に入って落飾し、一説にここで亡くなったとも言われています。大きな松の根元に五輪塔があり、灌子内親王の墓と云われています。この話はあとから知ったので、お墓は未確認です。温泉もあって風光明媚ですので、またお参りに行きたいと思います。


白山神社
以前の記事で南朝伝説には万里小路藤房の伝説がつきものだと言いましたが、やはり三河の伝説にも藤房の伝説が含まれていました。藤房は卍山の北麓、豊川市金野の里の寺に陰棲し同地で死去、遺骸は観音寺に葬られたと伝わります。観音寺は今はありませんが、五輪塔が残ると聞き、白山神社に行くことにします…が!山を登るにつれて道は細く曲がりくねっていきます。軽自動車を借りていたのですが、それさえも通行が厳しい道でした。よってついに断念しました。機会があれば今度はバイクで行ってみたいと思います(懲りん奴(笑))。

さて、蒲郡周辺の探索はこれで終えて、もう一つ別種の伝説の探索に向かうことにします。結局この伝説には痕跡すら遺っていなかった…。


三河吉野朝をまわってみて感じたのは、どうも古墳を南朝皇族の陵墓としているのが多いということです。車神社もそうでしたが、端的な例は、名電国府駅の近くにある船山古墳です。埴輪が出土するなど、築造時期は疑いようもなく古墳時代です。それを三河吉野朝伝説首唱者は、長慶天皇の御陵だとしています。伝説の素地は魅力的なのに、こういう考証性のなさが非常に残念なところです。

 

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