南帝ラヂヲ

南朝・後南朝に関連する史蹟の現状を保存していきます。

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すべてはここから始まった

2011 - 01/22 [Sat] - 14:24



元中9(1392)年10月28日、後亀山天皇は長年住み慣れた吉野行宮を、三種神器を先頭に出立しました。飛鳥橘寺、南都興福寺に宿泊を重ね、同年閏10月2日、遂に京に還幸、嵯峨野大覚寺に入りました。これは足利義満との間で和議が成立したためです。すなはち「南北朝の合体」です。

実質的には南朝の降伏ですから、正統皇位の象徴である三種の神器は北朝方へ渡さなければなりません。神器はいったん大覚寺に安置された後、北朝の内裏に移されました。その神器が置かれていた部屋が正寝殿です(写真左)。

神器の引き渡しは「譲国之儀」によるべき、とは合体の条件でした。しかし当時の記録には、その儀式が行われた形跡がありません。つまり義満は条件を無視したのです。さらに、他の合体条件も棚上げにしてしまいます。

南朝内部の対足利強硬派は、それ見たことかと思ったことでしょう。上皇自身も後悔したかもしれません。それでも上皇は我慢強く耐え忍びました。後年、吉田兼敦に心境を語っています。

「民の憂いを除くため、運を天に任せて決断したのだ」

義満が死んだあと、幕府の旧南朝無視は露骨になりました。両統迭立との条項にもかかわらず、後小松天皇の皇太子に身仁親王を立てたことは、あからさまな違約です。これにはさすがの上皇も我慢ならず、応永17年11月吉野へと出奔、旧南朝勢力に檄を飛ばしました。かくて北畠満雅の挙兵が起こります。

しかし幕府の迅速な措置により満雅は矛を収めてしまいました。打つ手のなくなった上皇は、応永23年9月頃に嵯峨野に戻ったようです。以後は大覚寺で余生を過ごし、応永31年4月12日に薨去。嵯峨鳥居本に御陵が治定されています(写真右)。

以降、旧南朝勢力は幕府に圧迫され続けます。特に6代将軍義教は公然と南朝皇胤断絶策を打ち出してきました。追い詰められた旧南朝勢力は禁欠の変を起こして神器を奪取、奥吉野へ籠もって抵抗を続けることになります。

後南朝の哀史は、まさにこの部屋から始まったと云えましょう。

 

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遠州南朝伝説

2011 - 01/11 [Tue] - 22:59



三河吉野朝伝説を訪ねた次の日は、静岡県遠江地方まで足を伸ばします。


井伊谷宮(写真左)
浜松駅からバスで50分ほど乗り「神宮寺前」で下車します。ほんの5分ほど歩いたところに、官弊中社・井伊谷宮が鎮座坐す。祭神は後醍醐天皇の皇子・宗良親王です。親王は主に中部地方で活躍しました。時折吉野へ戻ることもありましたが、後半生の大半を信濃・遠江で過ごし、元中2(1385)年頃に薨じました。記録によるとこの井伊谷で亡くなったということで、宮内省治定墓も本殿の裏手にあります()。

井伊谷は、三河から続く姫街道(国道362号線)の気賀宿からわずか2kmほど北へ行った場所にあります。名称からはかなり狭い土地を想像していたのですが、実際には明るく開けた広い盆地でした。井伊氏が平安時代から勢力を維持してきたのも頷けます。同時にこのような勢力に目をつけた南朝の慧眼には驚くばかりです。

また今回は時間の都合上参れませんでしたが、さらに奥地には、方広寺があります。開山は無文元選禅師、後醍醐天皇の皇子です。禅師は一説に花園宮満良親王の後身であるとも言われています。そのような南朝にとって重要な人が井伊氏の分家の招きに応ずるというのは、南朝がこの地を重要視していたからと考えてもよいかもしれません。


上臈塚(写真中左)
バスで気賀駅へ出て、天竜浜名湖鉄道で西鹿島まで行きます。ちなみに姫街道は気賀から県道261号線になって南東へ方角を変え浜松市内へと向かいますが、国道362号線はこの鉄道に併走して遠州北東部へと続いていきます。西鹿島からはさらにバスで山東まで乗ります。この山東は、国道362号線と信濃からくる国道152号線が交叉する地です。また、天竜川と二俣川が出会う水運の要衝でもあります。バスの終点から徒歩で国道152号線を10分ほど歩くと、道端に小さな塚があります。これが上臈塚です。

説明看板によりますと、長慶天皇の第一皇女・綾姫がこの地で亡くなったので、塚を築いて葬ったと伝わっているようです。何となく三河吉野朝伝説を想起させます。尤も、その推定の根拠が三河吉野朝伝説の元となる文書なのでやむを得ないのかもしれません。

ただ。国道152号線は秋葉山を経てはるか信濃の大川原に続いています。宗良親王が征旅の大半を過ごした地です。ですので、ここに祀られているのが南朝所縁の人だとすると、宗良親王の関係者の可能性が高いと思われます。

なお国道362号線をそのままたどり行くと、後醍醐天皇の伝説のある京丸や、寸又峡にほど近い千頭に行くことができます。特に千頭は、八幡船で高名な海賊大石氏の本拠地でした。この大石氏には南北朝期に池田教正の息・を婿に迎えたとの伝説があります。実否はともかく、千頭の地が南朝の影響下にあったことを伺わせる伝説だと思います。


了願公園(写真右中)
西鹿島駅より遠州鉄道でいったん浜松駅に戻り、再度バスに乗り、今度は東へ向かいます。15分ほどで「安間」バス停に着きます。そこから徒歩で国道1号線を越えたところに小さな公園があります。これが了願公園です。

何やら仏教めいた名前ですが、人名に由来します。興国年間において、南朝は楠木正行が中心となって攻勢に出るわけですが、常に正行に付き従って活躍した武将が「安間了願」でした。その正体は楠木一族とも淡路の水軍だとも云われますが、この地方の伝によると、元中年間に了願が来て天竜川沿いのこの地を開き、ゆえに地名も安間と称するようになった、と。代々その子孫が名主を務めていたが、平成になって屋敷跡地を市に寄贈して公園に整備し、祖先の了願を記念して了願公園となったとのことです。

安間了願も様々な伝説がある武将です。個人的には楠木氏と通婚した淡路水軍だと考えていますが、この近隣の勢力だったとすると、楠木氏の駿河出自説を補強する材料となりそうです。尤も開拓が元中年間とのことですから、一族が畿内から下ってきたとも考えられます。

そして了願公園の前の小道が気賀宿から続く姫街道なのです。先の県道がこの安間で東海道に接続します。街道自体は江戸時代に整備されたものでしょうが、それ以前の時代に原型が作られていたのではないでしょうか。姫街道は、まさに南朝ルートと呼ぶに相応しいと感じました。


大歳神社(写真右)
了願公園より北西へ歩いていきます。この日も炎熱地獄でしたが、史蹟がさくさく見つかるのに気をよくして、汗を拭き拭き歩いていきます。安間川に沿って30分ほど歩くと、壁に「天王町」と書かれた建物が目立ち始めます。その一角に、かなり広い境内の神社があります。これが大歳神社です。

延喜式内社といいますから創建は平安時代以前、社伝によると景行天皇の御代にまで遡るそうです。この神社が後南朝とどう関わっているのでしょうか。それは祭神を見れば一目瞭然です。すなはち、主神の他に長慶天皇・後醍醐天皇・後村上天皇・亀山天皇・後二条天皇をお祀りしているのです。

なぜに大覚寺統の天皇たちが祀られているのでしょうか。曰く、吉野を逃れ出た長慶天皇は遠州に落ち延び、この地に潜居したと伝わります。なのでこの一帯を後世、天王町と呼ぶようになり、また南朝天皇をお祀りするようになったということです。ちなみに長慶天皇の子孫は昭和の御代にまで続き、我こそは天皇なり!と主張しました。自称天皇の一人「竹山天皇」がこれです。

自称天皇絡みなので、あまり信が置けないかもしれません。しかし安間と川一本で結ばれた水運のよさと古来からある神社の存在は、高貴な落人が匿われるには絶好の地と言えましょう。楠木氏関係者が付き添うような、高位の南朝関係者がいたのかもしれません。またこの辺りに真田大助が逃れて来たとの伝承もありました。敗れた逃亡者を受け入れ匿う気風があった土地だったのかもしれません。

 

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