南帝ラヂヲ

南朝・後南朝に関連する史蹟の現状を保存していきます。

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玉川宮

2012 - 10/09 [Tue] - 15:23







鳥取駅から自転車で15分ほど南東に走ると、標高100mほどの小山が見えてきます。もう少し東の方になりますが、その辺りには奈良時代より因幡国府がありました。国司として赴任した都びとたちがこの山に天香具山の面影を見て歌を残したことにちなんで、面影山と名づけられたそうです。

さてその南麓に神社があります。名を「櫻谷神社」と申し上げます。神社自体は地域の鎮守様といった趣でごく小さなお社です。しかし参道入口の鳥居の脇にある白い標柱の文字に目が釘づけになります(写真左)。曰く「伝承第九十八代長慶天皇御陵」。もちろんこれが目当てで来たのですが、かなり新しい標柱なのに驚きます。地元では大切にされていることがうかがえます。細い参道を進むと、神社の手前に手作りの標識があり、そちらに入ります。周囲は藪が生い茂って日もあまりさしこまないので少しじめじめしているのですが、上空はぽっかりと空いていて明るい雰囲気があります。そこに、三基の宝筺印塔がならんでいます(写真中左)。どれがどなたのものかはっきりしませんが、案内看板によりますと、ここには、長慶天皇・玉川宮・東御方が眠っておられるそうです。

長慶天皇には世泰・海門承朝といった皇子がいたことが確認されていますが、いま一人、実名不詳の「玉川宮」と称する皇子がいました。長慶天皇の系統は概して足利幕府には従順で、玉川宮は、出家こそしないまでも当時の朝廷の中でいろいろと交流があったようです。後に足利義教のときには娘を室町御所に出仕させたりもしています。これが史料に「東御方」として現れる方です。史料が少ないので玉川宮の消息は断片的にしかわかりませんが、嘉吉3年5月7日の小倉宮聖承の薨去を受けて書かれた同9日付の建内記に「玉川宮は因幡に遷られた」とあるのが同時代史料で確認できる最後です。面影山の北麓には玉川八幡宮があったそうです(写真中右)。因幡に遷った玉川宮がこの地に隠棲して余生を送られたという伝承が残っています。

そもそも、なぜにこの地なのか?という疑問が残ります。その参考になるのが、長慶天皇の伝説なのです。この玉川八幡宮址のすぐ近くに「長慶庵」なる小寺があります。その伝によりますと、この地にはもともと行基によって開かれた寺がありましたが廃れてしまっていたのを、正寛法師がやって来て再興したそうです。その後、南北朝合一とともに諸国を流浪していた長慶天皇がその身を寄せ、この地に隠棲して崩御したということです。この正寛法師は、もと赤松の郎党であり父の仇・楠木正儀に復讐しようとして果たせず、正儀の慈悲深さに心打たれて出家した和田正寛(宇野六郎の子・熊王)でした(吉野拾遺)。もちろん正寛法師のその後は不明ですので、この地にやって来た可能性も否定できませんが、そもそも実在したかどうかさえ危ぶまれる人物、やや現実性に乏しい感は否めません。

むしろ現地に伝わるいま一つの伝承の方がすっきりしています。曰く、嵯峨野の地を脱せられて丹波千年山におられた長慶天皇を、因幡守護の山名氏が因幡にお遷ししてこの地に庇護し、長慶天皇は同地で崩御された云々。山名氏は足利幕府においては重鎮でしたが叛服常ならない勢力でした。幕府との関係が悪化すると、南朝に降って大義を手に入れて戦っています。山名宗全は、後に応仁の乱において西陣南帝を戴いて、東軍と戦っています。その先鞭ということで玉川宮をひそかに匿ったということは大いにあることだと思います。もっとも、最終的には西陣南帝を担いでいることから、玉川宮は応仁の乱以前に亡くなっていたのでしょう。

いま一人、東御方は、先述のごとく足利義教の室町第に側室として入りました。しかし後に不義密通の疑いをかけられ、永享9年に流罪に処せられてしまいます。ちょうど義教の弟・大覚寺義昭が謀叛を企てて出奔した直後だけに、政治的陰謀であることが濃厚です。配流先は不明ですが、東御方はそのまま史的消息を絶ちました。因幡のこの地にたどり着き、余生を穏やかに過ごしていればいいな、と思わせる墓所でした。

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