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南帝ラヂヲ

南朝・後南朝に関連する史蹟の現状を保存していきます。

楠木正勝の墓

2007 - 11/06 [Tue] - 14:20

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十津川村武蔵にある"公式の"お墓です。

南北朝合一直前、千早城失陥により正勝は吉野へと逃れます。のち、大内義弘が足利幕府に対して叛旗を翻した「応永の乱」に大内側に立って参戦、しかし義弘の討死により再び吉野へと去ります。その後の事蹟が殆ど不明なのですが、十津川に来て再挙を図るも病を得てこの地にて歿した、とされています。

しかし後半生が謎に包まれているため、様々な伝説が生まれ、従って正勝の墓も多々存在することになります。中には、伝承に基づいて墓を造りわざわざ十津川に来て分骨して貰った例もあります。

 

そしてお墓の多い方と言えば「長慶天皇」です。正勝の墓は十余りなのですが、長慶天皇は一説百とも言われています。中には荒唐無稽な偽史に基づくものもありますが、紀伊半島南部ではかなりの数に上ります。最後まで合一に反対した強硬派だったためか、京都で死んでいないと根強く信じられているようです。

そうして所縁の各地には御陵が誕生しました。この十津川の地もその例に漏れません。ただこの地は、天皇が実際におられた気配が多少濃厚で、その点では信憑性も若干上がります。

曰く、旧武蔵小学校の敷地は、その昔、長盛山光明寺という寺がありました。同地で亡くなった正勝や長慶天皇を埋葬し、菩提を弔っていました。しかし寺は江戸時代に焼失、また代々伝えられて来た什器宝物も盗み出されてしまったと言います。

ですので、今に残るのは正勝の墓と佐久間信盛の墓、そして長慶天皇の伝説だけです。ただ地元の神社には長慶天皇が祭られています。

 

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