南帝ラヂヲ

南朝・後南朝に関連する史蹟の現状を保存していきます。

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春王・安王

2008 - 06/21 [Sat] - 22:47

20080621224903
今回は南朝関係者ではありません。敵とも言える足利氏です。すなはち、鎌倉公方足利持氏の次男である春王と、三男の安王の墓です。足利氏ではありますが、後南朝勢力を徹底的に弾圧した六代将軍足利義教の犠牲者ということで今回取り上げました。

この墓は岐阜県大垣市垂井、国道21号線沿いの墓地の中にあります。関東公方の息子がなぜにここで死んだのか。深い深いドラマがありました。

 

時は春王安王の死ぬ2年前に遡ります。永享11年(1439)、鎌倉公方足利持氏は京の将軍足利義教に対して叛意を露わにしました。従前の経緯より対立が決定的であったため、義教は遂に討伐に踏み切ります。

関東管領上杉憲実が将軍側についたこともあって味方する者は少なく、持氏は敗れて自害に追い込まれます。これが関東永享の乱です。この乱で、長男の足利義久は持氏と運命を伴にしますが、まだ年少の春王・安王は持氏の味方であった豪族に密かに匿われます。

その翌年。下総の豪族・結城氏朝が公然と幕府に叛旗を翻します。そのシンボルが春王・安王でした。これが結城合戦です。

幕府や上杉氏に反発する勢力も多かったのか、なかなか鎮圧できません。死に物狂いの抵抗に犠牲が多く出たため、城を囲んで時間ばかりが過ぎます。京では将軍弟・大覚寺義昭が姿を消して行方不明になっており、世の中は騒然としていました。そのため義教は早期の鎮圧を催促してきます。そこで鎮圧軍は力攻めに転じ、また城内に内応者を作ることに成功したこともあり、遂に結城城を陥落させます。結城氏朝をはじめ、籠城した武将はほとんど自害しました。

しかし春王・安王は女装して脱出します。またも逃げ延びるかと思われましたが、正体を見破られて捕らえられ、京に送られることになりました。

行程も半ばを過ぎ、美濃垂井宿に着きました。そこに使者に行き会います。この使者は二人に対する義教の処分の命令を奉じていました。つまり「斬れ」と。かくして二人は垂井宿の金蓮寺にて斬首されたのです。春王13歳、安王11歳と伝わります。

 

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