南帝ラヂヲ

南朝・後南朝に関連する史蹟の現状を保存していきます。

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赤松塚

2009 - 05/13 [Wed] - 02:37

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国道369号線に上多気という交差点があります。北へ曲がればすぐに北畠神社があり、その一帯が伊勢国司北畠氏の本拠・多気御所です。今回は南の方に進路をとります。1~1.5車線ほどの細い道をひたすら進みます。沿道には、北畠氏に関係する地蔵さんや松月院址などが点在します。5分ほど車で走ると小さな看板が立っています。そこより看板に従って徒歩すぐ、民家の裏手に五輪塔が祀られています(写真右)。これが赤松塚です。

五輪塔の傍には卒塔婆が立てられていて、被葬者の名を教えてくれます。すなはち、この塚には赤松教康が葬られています。赤松といえば播磨です。その赤松一族がなぜに伊勢で死んだのでしょうか…。

それは教康の父に由来します。彼の父は赤松満祐。室町幕府6代将軍・足利義教を自邸にて殺害するという嘉吉の乱を起こした男なのでした。

満祐は義教を殺した後、本拠の播磨に帰って追討軍を迎え撃ちました。しかし特に山名持豊の働きもあって敗れ、城山城で自害します。このとき教康は脱出しました。そして妻の実家であり同じ村上源氏でもある伊勢北畠氏を頼っていったのです。

北畠氏の当代は教具でした。父は断頭将軍の異名を持つ満雅。小倉宮を擁して幕府に挑んだ英傑でした。しかし岩田河畔にて討ち死にしてしまい、伊勢国司家は滅亡の危機に瀕します。その国司家を存続させたのが足利義教でした。そのため教具は義教に多大な恩義を感じていたのでしょう。また、その存続に力を尽くしたのが赤松満祐でした。教具は二つの恩義に板挟みとなり苦悩します。

しかし結局、教具は幕府を取りました。教康に対して匿えない旨を伝えます。教康は絶望し、ついにこの伊勢の奥地で自刃しました。享年、19歳。

かくして赤松家はいったん滅亡します。その後20年を経て再興されますが、その生け贄にされたのが後南朝でした。その意味でここは後南朝史蹟と言えましょう。


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