南帝ラヂヲ

南朝・後南朝に関連する史蹟の現状を保存していきます。

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昌寿院

2009 - 06/08 [Mon] - 15:18

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嵯峨嵐山や保津峡を抜けると、丹波の国です。そして山陰道から京都に入るときに要衝となるのが亀岡です。戦国時代には丹波を平定した明智光秀が亀山城を築いていました。重要な戦略拠点であったことはどの時代でも同じでした。なかでも源氏は早くから領地としていたようで、頼政塚や篠村八幡宮などがあります。

ちなみに篠村八幡宮は、鎌倉幕府より船上山の後醍醐天皇討伐を命ぜられた足利高氏が、北条氏に反旗を翻すことを明らかにした地でもあります。ここより軍を反転させ、一気に京の六波羅探題を陥として幕府は滅亡へと向かうことになります。

このように亀岡は足利氏の土地との印象が強かったのですが、篠村八幡宮の目と鼻の先に楠木氏に関係する遺蹟がありました。それが昌寿院です(写真左)。

亀岡駅より東南の方向に徒歩で15分ほど行くと、年谷川のほとりに昌寿院があります。普通の寺のようですが、山門には菊水紋が刻まれてあります(写真中)。境内には五輪塔があり、"関家"と刻まれてあります(写真右)。この関家の先祖が関正世といい、楠木正時の子と云われています。

伝に曰く、南北朝の抗争が激化したために、楠木正時は妻を実家の関氏に帰しました。妻は懐胎しており、この地で男子を産みます。これが関正世です。関氏は以降もこの地に居住していました。なのでこの地は"楠屋敷"と呼ばれていました。

しかし戦国時代末期、明智光秀が丹波平定にやって来ます。関氏は正則の代でしたが戦火に巻き込まれて楠屋敷も焼亡してしまいました。その後亀山城築城に際して城下町の整理が行われ、この地には昌寿院が建つことになったのです。

楠木正時に関する伝承は少なく、その意味でここは大変貴重な場所と言えましょう。



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