南帝ラヂヲ

南朝・後南朝に関連する史蹟の現状を保存していきます。

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我王墓

2009 - 08/23 [Sun] - 21:31

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岡山県中部、備前と美作の国境に久米郡美咲町があります。山が連なりその間を川が流れる山あいの土地です。西側を流れる吉井川と東側の吉野川が出会うところが「飯岡」です。やや開けた水田地帯の真ん中に一本の木と、真新しい石碑群があります。これが我王墓といい、美作後南朝皇統の最後の親王である良懐親王の墓とされています。

時は江戸時代。美作植月に御所を構えて後醍醐帝以来の血脈を営々と伝えてきた美作後南朝皇統も、徳川幕府の隠蔽政策によりようやく民草に埋没しようとしていました。当時の当主は良懐親王といいました。身体がひときわ立派で膂力に優れ、王に相応しい方だったそうです。そのため、再び世に出る機会をうかがっていました。5代将軍徳川綱吉の頃です。

ある日のこと、親王は岡山西大寺の祭礼見物を思い立ち、従者と船に乗って吉野川を下っていきました。そして備前鴻の瀬にさしかかったところ、何の拍子か船が転覆してしまいます。親王は川に投げ出されました。一説に、従者によって刺されたともあります。すぐに助け出され植月に戻ろうとしましたが傷は重く、この飯岡まで来てついに力尽きてしまいます。親王は、運び込まれた民家で「我は王なり」と言って絶命したそうです。地元の民はこれを哀れんで遺骸を葬り、"我王墓"として拝んできたと伝わります。平成の世になって研究グループが墓所を整備し、美作後南朝の伝承や系図を刻んだ石碑を建てています。

伝承の真偽としては、美作後南朝伝承の根拠がやや希薄なために、あまり真実性はないように感じられます。ただ、飯岡という土地の周辺を見ると、この墓が南朝との関係があるのかもしれないとも思えます。

すなはち、飯岡の北西には柵原があります。ここは平成3年まで鉱山がありました。鉱床の発見は江戸慶長年間にまで遡る古い鉱山です。南朝の資金源が鉱物資源であり、鉱山技術を持った民とも繋がりを持っていたということはよく指摘されています。南北朝期には未発見だったとはいえ、山深いこの地域に、南朝の息のかかったそのような民がいたであろうことは大いに考えられることです。その民の代表のような立場にいた人物が、徳川幕府の鉱山支配に抵抗し、暗殺されたか何かでこの地に葬られたということはなかったのでしょうか。その人物と後南朝伝説が結びついたように思われてなりません。



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