南帝ラヂヲ

南朝・後南朝に関連する史蹟の現状を保存していきます。

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南帝山

2009 - 10/18 [Sun] - 03:24

1255803847-清慶寺1.jpg1255803846-清慶寺2.jpg1255803845-清慶寺3.jpg

国道372号線は、京都府亀岡市と兵庫県姫路市を結ぶ幹線国道です。姫路より1時間ほど車で走ると加西市中野町のあたりにやって来ます。その名も加西中野交差点のすぐ側に「清慶寺」があります。境内はさほど広くありませんが、本堂はかなり大きく立派です。本堂の向かって左には県指定文化財の石塔や板碑があります。右手には白塀で囲まれた土盛があり、その頂にまた石塔が建っています(写真)。こちらは比較的新しく、葬られた人の名を刻んでいます。「仁尊親王」とあります。聞いたことのない親王ですが、左右に小さく「後醍醐天皇御曾孫」「吉野御所奉〇〇〇」ともあります。後醍醐天皇の曾孫とは長慶天皇か後亀山天皇の子ということになります。吉野御所という文字から後亀山天皇系でしょうか。いずれにせよ後南朝に関係する親王の墓のようです。この寺の山号が「南帝山」となっている由縁です。

石塔の字句を文字通り受け取るとすれば、被葬者は、史料にいう小倉宮恒敦王、伝承にいう小倉宮実仁王となりそうです。しかしこの地に伝わる伝承では、いささか違うようです。

曰く、嘉吉の乱により滅亡した赤松宗家の復興を目指し、その遺臣たちは、後南朝朝廷のもとにある神璽の奪取を企図します。この遺臣の一人に中村助直がおり、その家来に小谷与次がいました。この中野の出身で、清慶寺付近にあった中野居館に住まいしていたそうです。与次は忠阿弥と名乗って奥吉野へ潜入します。そして後南朝朝廷に現れ、持ち前の画力を以て後南朝二皇子(いわゆる自天王・忠義王)に取り入ります。皆の馴染みになった頃合いを見計らい、自分が赤松氏の関係者であることを明かし、赤松一党が仕えることを申し出ます。疑う向きもなかったではないですが、与次の献身のかいあって、赤松一党は首尾良く後南朝に仕えることになりました。

当初一党は誠心誠意、後南朝に尽くしたようです。この時期に後南朝は、吉野へ進出して愛染宝塔で金峯山寺衆徒と戦っています。赤松一党が加わったことで積極策に打って出たのでしょう。一党も命を懸けて奮戦したことでしょう。

しかしそれも長くはありませんでした。すなはち長禄元年(1457)12月2日、赤松一党がついに本性を露わにして牙を剥きます。後南朝二皇子を襲撃して殺害、その首級と神璽を奪って逃走したのです。世に言う、長禄の変です。

川上村の伝承では首級も神璽も奪還されたことになっています。しかし一説に、神璽は奪還されたものの首級は持ち去られ、足利幕府に引き渡されたとされています。この首級を保管していたのが小谷与次でした。幕府にとって必要とされたのは、自天王と称していた兄宮の首級だけでした。弟宮の首級は不要とされたのです。そこで与次は、弟宮の首級をこの清慶寺に懇ろに葬り香華を手向けたのです。裏切ってしまったとは言え、後南朝二皇子は慣れ親しんだ相手です。与次もかなり苦しんだのではないでしょうか。

弟宮の御墓は川上村にあります。しかし後南朝の悲劇をより伝える遺跡として、この清慶寺の南帝塚こそ真の御墓ではないかと思えてなりません。



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