南帝ラヂヲ

南朝・後南朝に関連する史蹟の現状を保存していきます。

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赤松氏の末路

2009 - 10/29 [Thu] - 14:11

1256793072-赤松義村墓.jpg1256793071-大物くずれ1.jpg1256793070-赤松晴政義祐墓.jpg

さて、後南朝二皇子の血の上に再興された赤松氏はその後どうなったのでしょうか。時は応仁の乱前後、すなはち、下剋上の嵐が吹き荒れる戦国時代への過渡期でした。赤松氏も例外なくその嵐に襲われます。

もともと再興は、小寺豊職をはじめとする遺臣たちの尽力によってなされたものでした。また三ヶ国の太守に返り咲いたのも、浦上則宗の八面六臂の活躍によります。いきおい、功績のある家臣たちが重臣として力を持つことになりました。実際、赤松政則と浦上則宗が対立して政則が堺に逃亡したという事件も起こっています。もっとも山名氏の侵攻という非常事態下にあり、また浦上則宗も主家を凌ぐ野心を持っていなかったので、このときは和解が成立しました。

政則が急逝し、家督は養子の赤松義村が継ぎました。浦上氏は村宗が、小寺氏は政隆が当主となっていました。この浦上村宗が勢力を拡大して独裁的に権力をふるうようになります。村宗は自分の利益しか考えなかったようで、当然反発する動きも出てきます。浦上一族の浦上村国が反村宗の旗を挙げ、これに赤松義村・小寺政隆らが与します。かくして赤松家は村宗派・反村宗派に二分されてしまいました。

赤松義村が与していることもあり、当初は反村宗派が優勢でした。しかし村宗の重臣・宇喜多能家が反村宗派の軍を破るに至って形勢は逆転します。そして赤松義村は幽閉され、後に殺されてしまいました。置塩城に近い浄安寺址に、この義村の供養塔が残されています(写真左)。義村の次は晴政が当主となりましたが、もはや実権はありませんでした。村宗は小寺政隆を討ち取るなど、ますます専横の度合いを強めていきます。

一方、京都では、幕府の実権を握っていた管領・細川政元が暗殺され、その勢力は澄之・澄元・高国に三分されていました。まず澄之が脱落し、澄元と高国の争いになります。京都に近い播磨を領していた赤松氏もこの争いに巻き込まれ、村宗は高国方に、晴政・小寺則職(政隆の子)は澄元(及びその子晴元)方につきました。そして高国と晴元は摂津天王寺・中島付近で激突します。勢力が均衡していたために、戦線は膠着状態でした。しかし晴元方の三好元長と赤松政祐の攻撃により高国方は大敗を喫し、その軍は崩壊します。参陣していた浦上村宗も摂津大物で討ち取られました。これを"大物くずれ"といい、阪神大物駅近くに碑が建っています(写真中)。

しかしこの事件により赤松家はいっそう乱れることになります。またにわかに強大化した出雲の尼子氏が備前・美作に進出してくるという事態もあり、赤松本家の求心力は著しく低下します。結果、浦上氏は村宗の息子である政宗・宗景が備前・美作を領して自立します。また東播磨の守護代であった別所氏、西播磨の小寺氏も独立指向を強めていきます。加えて赤松本家自体も、晴政・義祐親子が対立し、弱体化に拍車をかけることとなりました。置塩城下、松安寺址には親子が仲良く眠っていますが(写真右)、そこへ至る道は現代でもあまり整備されておらず、末期赤松氏の悲哀を充分に感じさせてくれています。

そして義祐の子の則房の代では豊臣秀吉の一家臣として阿波板野郡住吉1万石の領主にありつきます。さらにその子の則英の代には、関ヶ原の合戦が起こります。則英は西軍につき、戦後、福島正則を頼りますが許されず、京都戒光寺にて自害させられます。円心以来300年にわたって勢力を誇ってきた赤松氏もここに潰えてしまいました。

 

謎。

初めてコメントさせていただきます。「熊澤」で検索中に見つけました。
私、熊澤と申します。高知市在住です。
一応我が家が高知の熊澤一族の本家と言うことになっているみたいです。
ですが、謎があるんです。
秋と春に2箇所の墓参りをするんですが、その古いほうの墓。
我が家では、「先祖の墓」と呼んでいます。
かなり古い墓石が並んでいまして文字もはっきりとは読めませんが。
よく見てみると江戸時代に「久萬澤」から「熊澤」に苗字が変わっているんです。
読み方はおそらく同じだと思います。
我が家の謎です。
突然のコメント、失礼しました。

Re: 謎。

ようこそお越しいただきました。管理人です、よろしくお願いいたします。

高知の熊澤さまですか、高知は花園宮満良親王の流刑地であった関係もあり、
かなり南朝方が強い土地でもありましたので、南朝皇胤の係累が逃れていても
不思議ではないと考えます。尾張の熊澤氏と何か関係がおありなのでしょうか。

熊澤姓につきましては、尾張の方では、熊野宮の熊と奥州澤邑の澤をあわせた
と、かなり苦しい説明をしておられます。むしろ甲斐国熊沢村と結びつけた方が
信憑性があったかのように感じられます。熊澤さまのご先祖様がなぜに改姓
されたかというのは、本当に謎ですね。改姓の時期がもう少しはっきりすれば、
かなり謎が解き明かされるのではないかと思います。

高知の熊澤氏が南朝と何か関係があるのではないかということはとても
興味深いですので、また何かおわかりのことがあれば、ご教示くださいませ。

 

No title

はじめまして。
かなり以前より拝見させていただいていた後南朝ファンです。
これまでにも自分なりに所縁の地を訪れたりしていましたが、
貴ブログもかなり参考にさせていただいています。
特に兵庫県域での情報はありがたい限りです。ありがとうございます!
今後とも楽しみにしていますので、何卒よろしくお願いいたします!
ちなみに、高知の「熊澤」さんの件ですが、文字から推察して高知市北部
にあった名族「久万」氏、若しくはその地域である旧「久万村」とも何らかの
関係があるのではないでしょうか?そちらに何か所縁があるとか、お心当りはございませんでしょうか?
また、高知で「熊」の字がつく南朝所縁の場所といえば、市内ではありませんが、旧佐賀町に熊井という地名があります。同地の熊野神社境内には尊良親王が土佐に配流された際の黒木御所があったといいます。
浅い見識での拙い情報ではありますが、一助となりましたら幸いです。

こんばんわ。

はじめまして。
貴ブログはかなり以前より拝見しており、後南朝ファンの私には貴重な
情報源でもあります。毎回、良き情報をありがとうございます!
今後とも楽しみにいたしておりますよ!
ちなみに、「熊澤」さんの件、文字から推察しますと、高知市北部で
戦国期まで活躍した「久万」氏、或いはその領地であった旧「久万村」と
何らかの関係があるのでは? お心当りはございませんでしょうか?
また、高知県内の「熊」がつく地名で南朝関連地といえば、旧佐賀町の
熊井を思い浮かべます。同地には土佐に配流された尊良親王の黒木
御所があったと伝えられています。
以上、浅い見識からの拙い意見ではありますが、一助となりましたら
幸いです。

Re: こんばんわ。

ようこそお越し下さいました。
励みになるお言葉、ありがとうございます。
今後もいろいろな後南朝伝説を紹介していきたいと思います。
こちらこそよろしくお願いいたします。

> 戦国期まで活躍した「久万」氏、或いはその領地であった旧「久万村」
私は四国は不案内なものでして、旧・久万村は現在の久万高原町に
含まれますでしょうか?含まれるとするならば、久万高原町直瀬には
長慶天皇陵(笑)がありますね!陵墓自体は伝承であるとしても、
何かしら南朝方がいたことが推測されるので、そことの関係が
考えられますね。

> 旧佐賀町の熊井
有井庄司ですね?単に純朴な心情から尊良親王を歓待したのか、
あるいは何らかの連絡があったか…。
「熊」のつく地名を追ってみるのも面白そうです。

> 一助となりましたら幸いです。
私の知らないことを御存じなので、本当に興味深く拝読しました。
次に狙っている(笑)のは四国です。またいろいろ教示ください。

 

御返信ありがとうございます。

こちらこそ、不慣れなもので二度も送信してしまい、失礼いたしました。
土佐を脱藩中の身ではありますが(笑)何卒よしなに!

久万高原町は愛媛県ですね。土佐の旧・久万村は高知市内北部です。
ちなみに、久万氏は戦国期には長宗我部元親の家臣でしたが、その祖は
吉良氏です。吉良氏といえば足利氏の同族である三河や奥州の吉良氏が
有名ですが、土佐の吉良氏は同じ清和源氏でも土佐に配流された源希義
(頼朝の弟)が祖といいます。鎌倉期は北条氏の被官であったものの、
のち後醍醐天皇に仕え、六波羅攻め等に功があり、南朝方として伊予の
河野氏らと共に活動したようです。しかし後に北朝方に走り、土佐南朝方
の拠点・大高坂城攻めにも参加しています。いつの時代に分かれたかは
不詳ですが、その分流が久万氏とのことです。

さて有井庄司ですが、おそらくは最初に親王を出迎える大平弾正から
前もって耳にしていたのでは?と考えています。配流された親王を警護
してきた佐々木判官時信が出迎えた弾正を幕府方の受取人と信じて
親王を渡したといいますので、本来は宮方に心を寄せていた弾正が
ひと芝居うち、有井庄司はその様子をどこかから見ていたのでは?と
想像するだけで面白いですよね。

その吉良氏と大平氏は、戦国期には長宗我部氏らと並んで「土佐七守護」
といわれる大豪族となりました。歴史というものは本当に興味の尽きない
ものですよね。

今回も長々と乱文にて失礼いたしました。

Re: 御返信ありがとうございます。

> こちらこそ、不慣れなもので二度も送信してしまい、失礼いたしました。
いえいえ、お気になさらずに!

> 土佐の旧・久万村は高知市内北部です。
入明駅から川を隔てた北側の、中久万・東久万・西久万ってあたりでしょうか。
けっこう高知市の中心に近いのですな。うーん、何かにおうぞ(笑)。

> その祖は吉良氏です。
長宗我部元親の弟に吉良親貞がいましたが、その吉良氏ですかね。
足利一門とは別系というのは知っていましたが、源希義ですか。
鎌倉幕府に恨みがないわけではないですね。

> 本来は宮方に心を寄せていた弾正がひと芝居うち
これ面白い解釈ですね。何か連絡があったと考えることもできます。
四国は石鎚山の修験道が有名ですが、高知では修験はどんな
感じになっていたのでしょうね?

> 想像するだけで面白いですよね。
その通りです。南朝方は史料が少ない分、想像の幅が大きいのが楽しいです。

 

再び、こんばんわ。

重ねてのご返信に感謝いたします。

「久万」はその辺りの地名です。入明側とを隔てている川は「久万川」と
いいます。入明より少し南に現在の高知城。ご存知の通り、高知城のある
地は南北朝期には「大高坂」といい、満良親王を戴く土佐の南朝方が篭り
戦うも落城しました。ちなみに城主・大高坂松王丸の子孫は名のある気功
の先生でして「大高坂松王丸祭り」なる顕彰祭も高知市で主催されておら
れます。私は土佐脱藩中につき、まだ参加した事はありませんが・・・w
蛇足ながら、「久万」氏の子孫は小学校時代の友人(もちろん「久万」姓)に
おりまして、実家は墓石屋さん。何の因果か久万地域の墓地にも墓石を
納入されておられました、と今思い出しました。

吉良氏の件ですが、吉良本流は戦国期に対抗勢力により滅亡、その名跡
を惜しんだ長宗我部元親が弟の親貞に名乗らせたものです。その分家の
流れという「吉良」さん(女性)は中学時代の友人でしたw
希義の子孫という事は頼朝同様、義朝の直系となりますので、ある意味
源氏の嫡流ともいえますよね?鎌倉幕府には恨みもひとしお、更には源
氏傍系である足利氏にも・・・と妄想(?)は膨らみますw

さて、修験道です。土佐の修験場で有名なのは高岡郡越智町の横倉山
ですね。ここには金剛蔵王権現や熊野権現が祀られています(!)
また当地は伊予の越智一族との関わりも考えられますが、伊予の越智氏
といえば南朝方ですし、河野氏もその一族といわれていますよね。(ちなみ
に私の先祖も姓は違えど越智一族らしいです。)
また土佐の熊野信仰は厚く、そのネットワークも活用されていたのでは?
その横倉山は壇ノ浦を脱出された安徳天皇の陵墓参考地でもあります。
南北朝期の当地は北朝方の片岡氏、周囲には南朝方の佐川氏等が混在
していたようです。当時の事ですから、それら諸氏が常に片陣営に味方
していた訳ではないでしょうし、同族でも意見の違いはあったでしょうが。
片岡氏等は例の大平氏とも血縁関係にあったようですし。

と、表現力の無さから、またまた長文と化してしまいましたが、何らかの
「臭い」がする情報となりますれば幸いに存じます。

Re: 再び、こんばんわ。

> 「大高坂松王丸祭り」なる顕彰祭
久万の松熊神社に祀られているのですか。
これ、いつごろ催されるのでしょうか。

> 「吉良」さん(女性)は中学時代の友人
いろいろご縁がおありのようで。
ちなみに管理人は「北畠」さんが同級生でした。

> 高岡郡越智町の横倉山
越智…。伊予越智氏と大和越智氏の接点のような感じが
しますね。越智氏は大和も伊予もかなり重要な一族なので、
伊予と大和がどのような連携を取っていたのか興味があります。

> (ちなみに私の先祖も姓は違えど越智一族らしいです。)
おお、生粋の南朝方ですな(笑)!

> 安徳天皇の陵墓参考地
お、平家落武者伝説!熊野・光福寺もそうですが、後南朝伝説と
平家伝説は、敗者ということで親和性があります。四国は、徳島や
高知は比較的平家伝説の方が強く、讃岐・伊予は南朝伝説の方が
強いように感じられます。

> 何らかの「臭い」がする情報
ぷんぷん香ってきますよ~(笑)。
高知へ行きたくなりました!

 

こんばんわ。

再びのご返信ありがとうございます。

江戸期に大高坂での戦いの戦死者供養の古碑が出土し、その近辺に
大高坂松王丸の墓碑として小祠が作られたそうです。昭和になって
松王丸に正四位が贈られたのを期にその横に大高坂神社が建てられ
ました。その地は現在の高知市役所の敷地内で、太平洋戦争で焼失
しましたが、現在も市役所前の広場に碑が残っています。
その大高坂神社は昭和21年に西久万に鎮座する松熊神社に合祀され
ました。くだんの松熊神社ですが、その略記には祭神の大高坂松熊大神
は戦国末期に「御昇神」、神社を造営し、お城からも「毎度」祈願されたと
あり、江戸初期の造営かも知れません。祭神については「大高坂最後の
城主」とあり、これが先の大高坂城を指すならば松王丸本人でしょうが、
「戦国末期」に亡くなったのであれば松王丸の子孫かとも思われます。
小さな神社ではありますが、久万地域の氏神でもあり、久万城跡の麓に
鎮座するのも興味深いところではありますよね。
余談ながら、私の亡父の葬儀でもお世話になったのが高知八幡宮です。
江戸期は土佐藩主・山内氏の直祭社だったのですが、もともとは大高坂
氏が城の守護神として石清水八幡宮から勧請して大高坂城内にあった
ようです。

北畠姓の方とお知り合いとは羨ましいですね。こちらは郷里が田舎だけに
豪族や地侍の子孫の方々ばかりです。あ、私もかw

越智氏は古代よりの大族でもあり、諸説ありすぎて困りますよね。
伊予越智氏から大和越智氏が出たともいいますし、大和越智氏は大和源
氏から派生したともいいますよね。面白い説も幾つかありましたよ。
伊予越智氏の分流・伊予橘氏の後裔から楠木正成や観阿弥が出たという
説。伊予越智氏の流れという村上水軍で有名な村上氏には北畠親房の孫
(顕家の子)ともいわれる師清が養子に入ったという説。他にもありますが
系図等の信憑性はともかくとしても夢がかきたてられますね。う~ん、奥が
深そうです。そういえば、大和越智氏も伊予守を名乗っていましたね。

「判官贔屓」と申しますか、敗者への同情ともいえる親近感は日本人の
特性の一つなのでしょうね。その多分に漏れない私、平家伝説にも手を
染めておりますw
ちなみに熊野市の光福寺で思い出しましたが、後南朝関連でやり取りを
するようになった方のブログをお教えしておきますね。熊野ご在住の方で
地元の後南朝関連史跡などを巡っておられ、最近ブログを開設されました
。なかなか「巡礼」できない私にとって、この「南帝ラヂヲ」さんと共に重要
な情報源でもあります。先様にも紹介しておきますので、是非一度ブログ
にご訪問されては如何でしょうか?
          ↓ こちらです。
http://blogs.yahoo.co.jp/terryvsnokie

それでは、また。



追伸です。

申し訳ございません、大高坂松王丸の顕彰祭でしたね。
毎年10月の最終土曜日に行われており、今年で7回目のようです。
「日本道観」代表の早島氏がその末裔という事で始めたようで、今では
高知市の年中行事になっているみたいですね。脱藩の身とはいえ、
土佐人の端くれの私も気付かず、お恥ずかしい限りですw
               ↓
http://www.ndk-oj.com/kyoudogeinou/photo/photo_h19matsuoumaru.html
(この新聞記事は一昨年のもののようです。)

また、補足ですが、松王丸の墓に比定されている神社が高知市神田(こう
だ)にもありました。詳しくはこちらです。松熊神社も載っていますよ。
                  ↓
http://5.real-sound.net/~tetsuyosie/kouchi/koutisi/matsuo/matsuo.html

Re: こんばんわ。

ふぅ、やっと休日になりました。

> 大高坂神社
> 松熊神社
詳しいご教示、ありがとうございます。
後南朝伝説の一つに花園宮満良親王に関するものがあり、
彼を奉じた大高坂松王丸にも興味がわいています。

大高坂氏って、本姓は何氏(源平藤橘など)だったのでしょうね。

> 高知八幡宮
史蹟巡回メモに追加しました!

> 大高坂松王丸の顕彰祭
> 毎年10月の最終土曜日
なるほど。来年行ってみようかな(笑)?
伊勢北畠神社の例大祭に似た雰囲気ですね。

> 松王丸の墓に比定されている神社
写真を見る限り、非常にわかりにくそう(笑)。
しかしこれこそが南朝的史蹟というものです。
ひっそりと地元で祀られて大切にされているのが
何よりもいい。

> 分流・伊予橘氏から楠木正成や観阿弥が出たという説。
そうそう、まさに楠木氏と越智氏との関係が非常に
興味深いのです。両者の間には、金剛山を挟む同盟関係
以上の、ある種の同族意識が感じられます。

> 平家伝説にも手を染めておりますw
敗者の伝説は本当に興味深いです。
そういえば美作播磨探訪から帰る際、ここに立ち寄りました。
 ↓
http://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/historystation/legend/html/017/017.html

> 後南朝関連でやり取り
○chのあのスレですな。
内緒ですが、こっそり見てます(笑)。
後南朝や熊澤伝説を妙に叩きたがるのがいるので、
発言しないようにしていますが。

というわけで、このブログは奴らには秘密です(笑)。

> http://blogs.yahoo.co.jp/terryvsnokie
座崩の要塞址はなかなか興味深いですね。
腰掛石は探しに行って、あのカヤの木の所まで
行ったのですが、どれがその石かわからず
引き返してしまいました。来年、再挑戦してみます。

 

お疲れ様です。

お仕事お疲れ様でした。
いよいよ師走を迎え、お忙しい事と思います。お互い体調には気をつけて
頑張りませう!

満良親王の裔というと、かの大室寅之祐、否、明治天皇???
「満良親王=無文元遷禅師」の数々の伝承もありますよね。
う~む、謎が謎を呼びますね。

さて、大高坂氏です。手持ちの丹羽基二氏「日本姓氏事典」によると、
桓武平氏平田氏流とあり、また「土佐国古城略史」にも伊勢平氏の出と
あり祖として平田俊遠の名があります。平田俊遠は現在の高知県宿毛
市近辺を治めた平家家人です。前に紹介した土佐の吉良氏の祖である
源希義は配流された土佐で兄・頼朝の挙兵に応じましたが、先手をとって
希義を討ったのが、この平田俊遠です。後の大高坂城の戦で子孫同士が
再び相見えたのも宿命かも知れませんね。(大高坂氏の祖には異説も
ありますが。)
また、平田俊遠と共に希義を討った蓮池家綱は現在の高知県土佐市蓮池
を領していましたが、頼朝の命を受けた源有綱らによって平田と共に討伐
されました。蓮池氏滅亡後、鎌倉幕府の命により蓮池を治めたのが藤原
国信で大平氏を称しました。その曾孫・敏国は大平氏本宗そして蓮池城に
活動。弟の光国は幡多郡湊川に移りますが、それがかの大平弾正です。
弾正の次男・光綱は本宗の命で高岡郡北部(高知県高岡郡佐川町付近)
を治めて河間氏と称し、大高坂氏や大平氏と共に土佐の南朝方として
活躍しました。(大平氏初代・国信の兄・藤原(近藤)元国の次男の流れは
三宮氏を名乗り、北朝方として大高坂城を攻めています。)
余談ですが、平田俊遠と蓮池家綱を討った源有綱は源三位頼政の孫で、
土佐の平家方討伐の後は源義経の補佐として幕府より派遣され、義経の
逃亡に同行、のち潜伏中の大和宇陀郡にて捕縛され刑死しました。
本題の大高坂氏について判明している事をざっと紹介しておきますね。
大高坂氏初代・梅ノ官の墓は高知市新越戸、二代・遠江房の墓は高知市
赤石町にありと「土佐国古城略史」は記しますが、詳細な場所はわかりま
せん。同書は三代・松王丸の墓を例の松尾(松王)神社、四代・長門守の
墓は現在の松王丸顕彰碑のある高知市役所敷地内としています。五代・
権頭能重は長宗我部氏に従い、豊臣秀吉の九州遠征に従軍して豊後国
戸次川で戦死。六代・松久万丸與助は後に山内氏に仕え、その墓が久万
の松久万(松熊)神社であると記しています。その真相や如何に?

大高坂松王丸祭は今や市民の芸能発表の場ともなっているような気配
ですが、私も来年あたり見に行ってみようかとw
高知八幡宮の宮司さんは別役(べっちゃく)さん、今は大柄な息子さんが
取り仕切っておられるはずです。

平家伝説の小野豆は以前から興味を持っていましたが、先月に兵庫の
ローカルTVで紹介されていたのを見ました。丹波から丹後・但馬には
ドライブがてら行くのですが、播磨にも足を運んでみなければと!

飛鳥五郷まで行かれたのですね。
熊野まで行った数年前にはまだ後南朝にも見識が浅く、光福寺はじめ
史蹟・遺蹟もけっこう見逃しています(涙) 次回には必ずや!
西吉野・十津川・天川・川上など奈良県南部も何度か行きましたが、
御朝拝式にも未だ・・・三之公には来年を予定しています。
後南朝ファン失格?w

そんな失格者(?)の私ですが、御明察通り○ch某スレに出没して
おりますw 拙いながらも美作後南朝遺蹟のレポ他が私です。
最近はまた云々かんぬん文句をつける御仁が現れていますが、
歴史に「浪漫」は付き物。寧ろ「浪漫」を解せない方は歴史も解せない
と思っています。よって、そのような御仁はスルーしていますw
もちろん、ここの存在は秘しておきますのでご安心を!

それでは、また。


補足です。

先ほどの文中の地名に「新越戸(しんこえと)」は現在の高知市丸の内
1丁目に当り、高知城のすぐ西側です。江戸期には武家屋敷が建ち並び
同書には「由比直枝屋敷内土蔵の東」に墓があると記しています。
また、赤石町は昔は遊郭があり、現在のJR旭駅の南東です。同書は「
南田間」に墓があると記します。この町には高校時代に付き合っていた
同級生が住んでいたのでよく行きましたが、当時には既に一枚の田も
なく住宅地でした。赤石町の南は路面電車も通る国道です。まだ後南朝
など知る由もなかった当時の私もそのような史蹟があると聞いた事は
ありません。あ、もちろん当時の彼女は遊女でも芸者でもありませんよ、
念の為w
上記の他にも高知市枡形町の「松下邸」にも大高坂氏の古い墓があった
といわれているようです。
五代・能重は豊後戸次川で戦死したので、同地・大分県大分市の慰霊
碑に戦死した700余名ともいわれる長宗我部家臣の一人として祀られて
いる事でしょう。ちなみにこの戦では、長宗我部元親の長男・信親以下
多くの家臣が戦死し、その後の長宗我部家の運命をも大きく変えました。
同じ家臣であった私の先祖も従軍、家老らを失っています。合掌・・・。
戸次川で戦死したの権頭は名を経之とも伝えられ、更に大高坂新助と
いう人物も同時に戦死したという説もあるようです。
関が原に従軍した人物には大高坂季昌という名も見えますね。


豊臣政権下に記された「長宗我部地検帳」にも「大高坂殿」として同氏の
複数の名が出ていました。地盤であった大高坂村の他に潮江(うしおえ)
という地にも給地があったようですが、この潮江の山には大高坂の戦の
際、満良親王が「新田綿打入道」「金澤左近将監」「有井又三郎」他と陣を
張ったといわれています。

再び余談ですが、長宗我部家臣にも赤松姓がいましたよw
赤松飛騨守で、父は赤松左京大夫正則といい、赤松円心の流れとの事。
京都二条に住していた飛騨守は一条氏に従って土佐へ来住、のち長宗
我部元親の弟・吉良親貞に仕え、子は松岡と改姓、孫の代に長宗我部氏
が滅亡し、日向の島津氏に仕官したそうです。

ではでは。



Re: お疲れ様です。

> お互い体調には気をつけて頑張りませう!
今年は例の新型インフルエンザが流行ってるので
油断ができませんな。

> かの大室寅之祐
大室…はいかがお考えですか?私は眉唾ものと思っています。
ただ、なぜにこんな話がでてきたのかという背景には興味が
あります。

満良親王については、なぜか中国地方西部で伝承が残っている
ようです。師成親王と混同されているのかもしれません。

> 桓武平氏平田氏流
平氏!ってか、高知の豪族はいろいろな本姓があるのですなぁ。
全氏族が集まってるんじゃないでしょうか(笑)。紀伊に似てる。

> 初代・梅ノ官の墓は高知市新越戸
> 二代・遠江房の墓は高知市赤石町
> 三代・松王丸の墓を例の松尾(松王)神社
> 四代・長門守の墓は高知市役所敷地内
> 五代・権頭能重は豊後国戸次川
> 六代・松久万丸與助は久万の松久万(松熊)神社
ひとつずつ順に探し出してお参りしたいですなぁ。
初代・二代はお坊さんのような名前ですね。

> 「由比直枝屋敷内土蔵の東」
由比ですか。由比正雪と何らかの関係があるのでしょうかな。
幕末~明治期の人物ですか。屋敷はわかりそうな感じですね。

> その後の長宗我部家の運命
そして大坂夏の陣で長宗我部盛親軍が河内で奮戦しました。
物見の松址とか京都の盛親の首塚とか行きました。
長宗我部氏にも親近感があります。

> 赤松飛騨守で、父は赤松左京大夫正則
赤松もいろいろな分家がありますからねぇ。
土佐一条氏と組んでいたのですか。
摂関家じゃないか、侮れん(笑)。

> 御朝拝式にも未だ・・・三之公には来年を予定しています。
御朝拝式は正直微妙…(笑)。裃着て参加してる人たちだけが
楽しいんじゃないかと思われます。参加出来ない村民が、
あれは自己満足ないし家格誇示と言ってるらしいのも
うなずけます。

三之公は、私も来年には行こうと思っています。

> 拙いながらも美作後南朝遺蹟のレポ他が私です。
をを、159さん(笑)!あの記事に触発されて、今年は
美作後南朝を見てこようという気になったのですよ。

また私のレポもここにアップしますけど、何か
美作後南朝はダメですわ(笑)。残ってなさすぎです。

> よって、そのような御仁はスルーしていますw
同感。相手にするエネルギーを使うのもアホらしい。
でも…ムカつきますけどね(笑)。

> もちろん、ここの存在は秘しておきますのでご安心を!
安心しました(笑)。後南朝は密やかにやるのが妙味です。

 

ご返信ありがとうございます。

新型インフル、お互いに気をつけましょうね。

そうです、お恥ずかしい事に私が159です!w
わざわざ美作までご足労させてしまい申し訳ありませんでした(謝
あの頃は美作後南朝にハマッてまして結構お金を使ってしまいました・・・。
にしては収穫らしきものが少ないのは私の浅学ゆえかも知れませんが、
現地を訪ねるも臭覚の未熟さも手伝ってか、ほとんど「臭い」が無いw
しかも「モーゼ」の石を「水戸光圀」に提出したとか、南朝の秘宝を納めた
「神輿=アーク」まで登場してきた日にはインディ・ジョーンズでもない私
如きには難解すぎて・・・w しかも確かモーゼの石とやらは「竹内文書」の
竹内巨麿が所蔵していたとか何とか聞いたよなぁ・・・はぁ~・・・。と、まあ
こんな具合になりまして、現在は細々とアンテナを張っております・・・w
天王谷の「八咫鏡」といわれる出土物、公卿寺に伝来の「草薙剣」、滝神社
にあるという後南朝の神輿、植月御所の一部といわれる万福寺、他どれも
が何らかの要因があって今日まで伝承されているのでしょうが。

さて「明治天皇=大室」説にも大いに疑問を感じています。
「フルベッキの古写真」に島田隆資氏が西郷隆盛はじめ幕末維新の有名
人物をある意味「こじ付け」ともとれる「発見」をし、また鹿島昇氏が「天皇
すり替え」説を唱え、松重楊江氏がその両者を結びつける役割を果たした
のではないかと思っています。元・土佐藩士にして明治の元勲でもある
田中光顕卿が大室家・熊澤家と並ぶ「南朝系天皇家」の三浦芳堅に語っ
たという明治天皇すり替えや、元首相の岸信介もそれを臭わせる発言を
したという話も他ならぬ鹿島氏が紹介したのですしね。そのあたりは例の
「南北朝正閏論」を根拠の一つとしたのでしょう。そこにフリーメーソンも
絡めていくという鹿島氏系の本も話としては面白いのですが。
鹿島氏も大室近祐氏も故人ですし、真相は藪の中・・・ですかね?
吉田松陰はいわゆる水戸学からも尊皇思想に影響を受けたようですから
そこから長州藩に「南朝系による革命」思想が広まっていたという事は
あながち信用ならぬ話ではないのかも知れません。それに倒幕の後先に
外国の協力は不可欠と考えていた薩長にとって攘夷思想の孝明天皇は
邪魔だった・・・というところから「毒殺」説もありますが、その子・睦仁親王
もすり替える必要が・・・う~ん、可能性は全くのゼロとは言えませんがw
そう言えば徳川家康が天海大僧正と計り、外様大名が時の天皇を戴いて
反幕行動を起こした際の為に「輪王寺宮」を置いていますよね。いわば「
革命」対策ですが、実際に幕末には「東武皇帝」として旧幕府側に擁され
官軍と対峙するのですから、これはもうほとんど南北朝の再現に近かった
のかも知れませんね。同様に長州も用意していた・・・?
にしては、話ばかりであまりにも文献類や物証が無さ過ぎますよね。
だからこその「歴史秘話」と言われればそれまでですが・・・w

話変わって、土佐の豪族・地侍の出自は本当に様々です。古くから配流の
地であった事や、紀伊と似ているのは海路があり、中世まで決定的な支配
者がいなかった事等で「落人」も来住しやすかったのではないでしょうか。
もちろん出自詐称も多いでしょうね。私のご先祖様も藤原道長流と「自称」
していたらしいですからw
長宗我部氏は帰化系「秦氏」の出といわれています。かく申す私の家も
長宗我部氏の傘下となり四国平定や、秀吉の九州平定・朝鮮出兵にも
従軍しましたが、あらぬ嫌疑を受けて主である長宗我部元親に滅ぼされて
しまいました。そのせいもあって、大阪の陣には盛親ではなく他陣で豊臣
方として戦いました。その後は山内家に拾われて郷士庄屋になりました。
時代を経た今でも高知の老人は長宗我部家臣の子孫を「長宗我部侍」、
山内家臣の子孫を「山内侍」と呼びます。過去に遺恨はあったとしても
私も紛れもなく「長宗我部侍」ですし、長宗我部ファンでもあります。
(ちなみに長宗我部家臣以前は土佐一条氏に仕えていました。)
あ、また脇道に逸れてしまいましたね・・・w

由比家は土佐藩の重役の家柄で、もともとは駿河・遠江の出のようです。
直枝はご推察通り、明治初期の人物で高知県会議員でもあり、自由民権
運動にも活躍、のち坂本龍馬の甥・直寛らと共に北海道移民を推進。
邸跡は藩重役の屋敷が並ぶ辺りなので推定できそうですが、古い墓と
なると・・・分かればいいのですが。
また、歴代の名も古文書を基にしているので古文書にありがちな誤記の
可能性もありますよね。比較できるものがあればいいのですが。
由比正雪も駿河・由比家の流れでしたね。義父で師匠が楠木正辰でした
っけ? それに弟子で右腕格の丸橋忠弥は長宗我部盛親の子と称して
いたところも妙にアンテナに引っ掛かりますねw

御朝拝式、こう言っては何なのですが、確かに筋目の方々のある種「自己
満足」的儀式と映る事もあるかも知れませんね。しかし、それを誇りとして
現在まで・・・素晴らしい事だと思います。是非、今後とも続けて欲しいもの
です!
三之公は山蛭の季節以外に行こうと思っているのですが、その前に鈍った
身体を鍛え直しておかなければ、とほほ。

と言いつつも連休なのをよい事に香酒をチビチビやりながらの乱筆乱文。
余談だらけの駄文にまたまたお付き合いさせてしまい恐縮しきり・・・。
どうぞ、今後とも何卒よろしくお願いいたします。
「密やか」なる後南朝趣味に乾杯!












連投申し訳ないです。

美作後南朝について○ch某スレでコメントした事を再録しますね。
もう少し調べてみましたので。

「元弘期に後醍醐天皇の御子を宿した広橋局が天皇の流された隠岐国へ
下向途中、美作国藤尾山で出産、「大内皇子」と名付けられたそうです。
当時、美作国で勢威のあった菅公の末裔という菅家の一族がそれを守護
して御所を造営するも「大内皇子」は三歳で亡くなられたといい、御所宮・
日吉山王宮という地がその跡という話が「美作太平記」巻之二にあります。
同書には所謂「高福天皇」系「美作後南朝」については見当たりません。」

今のところ確認できていませんが、側室の多かった後醍醐天皇の事です
から「広橋局」という方もおられたのかも知れませんね。
菅家は菅原道真の子孫に始まるといい、豊田・有元(有本)・皆木・植月・
広戸・福本・菅田の7氏、その後は有本・広戸・植月・福光・原田・高取(
鷹取)・江見・中島の8家になり菅家七党ともいわれた有力国人衆です。
京都での六波羅軍との戦いで多くの戦死者を出し、赤松氏に属し、のち
には武家方になった家もあるようですね。この菅家党の末裔といわれて
いるのは異説もあるものの、柳生宗厳・前田利家・大隈重信ら。民主党の
菅直人氏は本当に子孫のようですよ。
文中の「藤尾山」とは「胎生山安城寺」の古い山号のようで、大内皇子を
祀った「王子権現」が尊崇され御所跡を「御子屋敷」と呼んだとの事です。
安城寺なる寺院は現在見当たりませんが、同書が引用したのは「東作誌」
の中の「大照山安祥寺縁起」であり、名からしてもこの安祥寺がそうでは
ないかと。岡山県勝田郡奈義町西原にありますね。皇子が亡くなられた地
はここではないでしょうか。一般に「王子権現」といえば熊野信仰、当地の
南には那智大社の庄園があったそうですし、少し南の出雲街道は後醍醐
天皇の隠岐配流のルートでもありましたよね。
また、造営していた御所の地は「御子屋敷」から「二里ばかり西」にあり、
後に「御所宮」「日吉山王宮」と呼ばれたと記されます。同じ奈義町に「御所
野」とそれらしき地名がありますが、上記の安祥寺から最短で8km、直線
距離でも6km近くありましてちょっと違うのかな~・・・w
いずれにしろ、後醍醐天皇配流の経路でもあり往時は南朝色が濃い地で
あった事は事実のようです。ただ「後南朝」となると物証などの乏しさからも
真偽のほどは???となる訳ですよ。研究者らによれば、津山藩主・森氏
が「後南朝」庇護者だったので江戸幕府に暗殺され後に藩は召し上げ、
代わって入封した松平氏が幕府の意向で痕跡を消したともいいます。
まあ、創作話にありがちと言えばありがちですが、南帝さんもご存知の
棚原町飯岡に残る我王(良懐親王)の墓碑。新しく立派に建てた方の祖に
当たるかどうかは別として、脇を流れる吉野川(!)あるいは吉井川で水死
(または暗殺)された「親王」伝承、川岸に残る「王子」の地名などは何かを
物語っているようにも思えます。親王ではなくても、どなたか高貴な血筋の
方が付近におられたのでは?とも思えてくるから不思議です。
もちろん、それを即「美作後南朝」と断定する事は危険すぎますが。

以上、再びの長文&稚拙な考証にて失礼いたしました。





Re: ご返信ありがとうございます。

> わざわざ美作までご足労させてしまい申し訳ありませんでした(謝
いやいや、楽しかったのでいいんです(笑)。
行けてないところもあるので、もう1回行きたいですわ。
新善光寺の近くにある御陵とか…。

> 収穫らしきものが少ない
私も、こと美作後南朝に関しては収穫がなかった!
どういう背景事情があってこの伝承が語られたのかさえ
見えてきません。もちろん広橋局・大内皇子や菅家七党などの
南朝色が強い土地とはいえ、後南朝を主張する理由がわかりません。

> 「竹内文書」
後南朝伝説も一度系統立てて整理しないといけないのですが、
これが諸悪の根源のひとつのような気がします。

> 天王谷の「八咫鏡」
これの出土地って行かれましたか?

> 「南朝系天皇家」の三浦芳堅
この人もまたややこしい(笑)。
来年は三河後南朝を探訪してこようかと考えています。
美作よりかは残ってるらしい。

> 「落人」も来住しやすかった
でしょうね~。
しかしなぜか後南朝関係者は土佐に行かない(笑)。

> あらぬ嫌疑を受けて主である長宗我部元親に滅ぼされて
ひょっとして盛親家督騒動とかですか?

> 丸橋忠弥は長宗我部盛親の子と称していた
長宗我部盛澄…。
慶安の変も正式記録など見たいのですがねぇ。

> その前に鈍った身体を鍛え直しておかなければ
私もかなり同様です(笑)。

> 岡山県勝田郡奈義町西原
美作後南朝と被る形で伝承が残っていますね。
こっちが原型なのでしょうかね。
これに後南朝をからめてきたと。…なぜ(笑)?

> どなたか高貴な血筋の方が付近におられたのでは?
これはありえることだと思っています。
それこそ花園宮の未知の皇子とか、あるいは南朝系公卿の
一人とか。柵原の歴史をもっと知る必要がありますね。

 

こんばんわ。

ご返信ありがとうございます。
準備を怠っていたせいか、私も美作探訪での心残りが結構ありますw
新善光寺に上村山陵(忠義天皇陵)、時間が許せば植月近辺ももっと
調べたかったですし、美作版「長禄の変」の舞台となった美作町北山の
辺りもじっくりと見たかったなぁ・・・。鏡の出土した杉坂峠へは後醍醐天皇
の碑を見に行きました。今ではそれよりも大きな神鏡出土地の看板が
立っていますよね。そう言えば鏡を埋めたのは平家家人・妹尾氏の裔
でしたっけ。掘り出したのはよいけど、所有権争いで裁判沙汰とは・・・。
美作後南朝ご歴代だけでなく、安徳天皇まで嘆いておられる事でしょう。

上記以外にも美作のあちこちに点々と伝承は残っているようですが、
物証があまりにも少なく且つ信憑性も低そうで・・・。ほとんどが口伝
なのは理解の範疇としても、研究者による古文献からの発見による
ものも多く、現代まで民間で語り継がれているものが少ない・・・。
この点を研究者たちは「徳川幕府による徹底した隠滅」と口を揃える
ものの、それでは吉野・川上村のそれはどうして弾圧されなかったの?
と訊いてみたいですよね。
もちろん歴史に浪漫は付き物ですし、私は「浪漫肯定派」ですw
ただ最初に読んだのが田中千秋氏「植月御所の真相」でしたので、
北朝側の資料を基にした森茂暁氏等の著書しか見た事のない私には
「美作こそ正統」という文調には些か面食らったのも事実です。
まあ、それ位で面食らっていては熊澤氏ら「天皇」の方々の主張には
ついていけないか~w (もちろん、それらも一つの浪漫ですが。)
その後、田中氏の流れを汲みながらも文調穏やかな原三正氏の
著書を入手して「面食らい度」も落ち着きましたw
私の国定教科書で培った歴史観が、森氏により「ほぅ!」となり、
田中氏で「えっ!言い過ぎちゃう?」、で原氏で「それも有りか」と
なったようなw (あくまでも美作後南朝についてです。)
原氏は美作後南朝に半世紀を費やした自身をその著書で「狂気
の沙汰といわれるであろう」と記し、続いて「しかし尚ひたすらに
つき進む作州ざむらいの意気を見て戴きたいのである」と。
また同書「美作天皇記」を公武抗争史の一編とし、「作州人は
批判精神が旺盛であり、反骨の姿勢が多分にある」とも。
その批判・反骨精神からすれば、南帝さんが以前に書かれて
いたように柵原の鉱山従事者等の徳川幕府への思いから
生まれたのかも知れませんよね。もともと木地師も調べて
いた私としては、木地師やタタラ師との関連もあるのではと。
いずれにせよ、めまぐるしい程に決定的主権者が移り変わった
美作で江戸期に入国した外様大名・森氏は善政だったよう
ですし、悪政とは言わずともその後の徳川親藩としての松平
藩政には何をかいわんや、美作人の心境もあったでしょう。

しかし何故に「後南朝」でなければいけなかったのか?ですよね。
私もピンとはきません・・・。ただ、美作後南朝に繋がるというも
酒本天皇のように主張しなかった流王家の系譜に川上村井光
の伊藤家との関わりを感じさせる点もあるようで、南朝系の皇族
関係あるいは家臣筋の血が美作に入ったのかも知れませんよね。
とすれば、慶安の変に多くの美作出身者が関与していた件も?

う~む、またまた悠久なる歴史の深みに・・・w
さて、私の先祖ですが、長宗我部家督騒動には巻き込まれて
おりません。かの騒動では旧知の勝賀野氏が滅ぼされましたが。
長男・信親の戦死後、元親はかなり判断力等が鈍ったといわれ、
家督騒動をはじめ幾つかの失政があります。
うちの場合、長宗我部氏に属す以前より恨みを買っていたようでw
一、長宗我部元親の安芸氏攻めの際、一条氏は元親を安芸氏と
 挟撃せんと画策。その先手侍大将が我が先祖。いったん和議と
 なり攻撃は寸前で中止されました。
二、のち元親が一条氏と講和した際の使者が我が先祖。元親側も
 かなり苦戦したようです。
三、講和が破れ、元親が一条氏領に侵攻した際、我が先祖らの
 ゲリラ戦法に苦戦したようです。
しかし降服して元親に属し、一生懸命に働きましたが、またまた
恨みを買ってしまいましたw
一、朝鮮出兵に従軍、その強弓を福島正則(加藤清正説もあり)
 が認めて太閤様に報告。伏見に招かれ、太閤様よりお褒めを
 戴くも、何故かその報告が届かず元親は激怒したようです。
二、元親の命により阿波まで出張。その際、蜂須賀公より仕官の
 勧めが。丁重に断った我が先祖。それを何故か耳にした元親
 は再び激怒。家臣に命じて、帰途の我が先祖を騙して殺害。
 翌日、我が城も元親軍に攻められ一族もろとも落城しました。
と伝わっています。
先祖の領地1800貫と本拠地の良港が欲しかった為ともいわれて
いますが、まあ、よくもこれだけの因縁をつけられたものですw
一族中で生き残った幼少のご先祖は長宗我部没落後、山内氏
にお預けの身となって土佐にいた毛利勝永に身を寄せ、大坂の
役では長宗我部ではなく毛利勝永陣にて豊臣方として戦いました。
その後、帰国して山内氏に仕えましたとさ。
とまあ、ここまで明かせば正体が・・・w どうか、ご内密にw
今でも古老が「長宗我部侍」「山内侍」と呼称する土佐にあっては
複雑な心境の子孫ではありますが。

その土佐では後南朝伝説は・・・確かに聞いた事がない!
それほどの貴種が残らなかったのか、あるいは譜代並の
外様大名・山内氏を憚っての事か、う~~む・・・。
もし後南朝ご後胤がいれば、幕末維新の主導権を薩長に
易々と握られる事もなかった?のかも知れませんよね。

それにしても「竹内文書」「富士宮下文書」諸々。
物語としては面白いのですがね。

三河後南朝はまだまだこれからの私ですが、またご教示
いただけましたら助かります。
三河での良き収穫をお祈りいたします!

いつもに増しての長文化・・・何卒ご容赦のほど・・・。
これに懲りず、今後ともよろしくお願いいたします。




Re: こんばんわ。

やっと休みになって気がつけば正月でした(笑)。
新年、あけましておめでとうございます。

> 新善光寺に上村山陵(忠義天皇陵)
新善光寺は行ったのですが、忠義天皇をお祀りしたとかいう
お堂はなかったです。ってか、とてもきれいに再建されてました。
現地では図書館にまで行って忠義天皇陵の場所を調べたのですが、
結局発見できず。しかし家でgoogle mapを見ていたら、新善光寺の
すぐ北に丸い土地があるのに気づいたと。おそらくこれだと思います。

> 杉坂峠へは後醍醐天皇の碑を
同じだ(笑)。あの坂道は意外としんどかったですな~。

> 大きな神鏡出土地の看板
これどこで見かけられました?

> 「徳川幕府による徹底した隠滅」
これを言うから信頼性が一気に無くなるんですよねぇ。
徳川幕府は北朝を奉じていましたが新田氏の子孫を名乗る
関係上、別に南朝を敵視してはいなかったはず。むしろ
高家みたいな待遇をもらえたと思うんですけどね。

> 木地師やタタラ師との関連もあるのではと。
これは濃厚ですね。信憑性の高い後南朝伝説は木地師との
つながりが見え隠れします。上北山村のがそうでした。

> しかし何故に「後南朝」でなければいけなかったのか?
つまるところ、私はこれを現地で見ようとしています。
美作は何もなかった…ですが、時之島の風景とよく似ていました。

> とまあ、ここまで明かせば正体が・・・w どうか、ご内密にw
武田の軍師が…おっと口が滑った(笑)。

> その土佐では後南朝伝説は・・・確かに聞いた事がない!
花園宮がずっと住んでいたらありえたでしょうけどね。
やっぱり安徳天皇の伝承の方が強いんでしょうなぁ。

> 物語としては面白いのですがね。
東日流外三郡誌も面白かったですよ(笑)!
読み物としてけっこう楽しめます。

> 三河での良き収穫をお祈りいたします!
どうも美作と同じ臭いがします(笑)。
ただ、どう同じなのか違うのかを見てくるつもりです。

> 今後ともよろしくお願いいたします。
こちらこそよろしくお願いいたします。

 

あけましておめでとうございます。

新年のご挨拶が遅くなりました。
まずは南帝様のご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げまする。

前回のコメントで紛らわしい表現となっておりました事、お詫びいたします。
八咫鏡出土地の看板があったのは杉坂峠より南の国道179号線の万能峠
を美作側へ少し下った所でした。天王谷はそこから万の台団地へ入って
いきます。 酔って書けばこの始末・・・w どうかご容赦をば。
当初は杉坂峠越えだった出雲街道は、江戸期に藩主・森氏により南方の
このルート(実際にはもう少し南側)になったといいます。
また余談になるかも知れませんが、「天王」はスサノオ信仰の由来地名で
あり、古代の出雲王権からきているとか。出雲軍の進軍経路にも多く残る
地名でもあり、もしかすると鏡との関連性もあるのかも知れませんね。
鏡自体、赤間神宮に行ったきりで時代鑑定もできてないようですが・・・。

忠義天皇御陵は美作後南朝研究者らの著書からしても、その上村にある
小山に間違いないと思われます。「美作天皇記」にはそれも含めて写真が
多く記載されていてイメージはし易いのですが、如何せん実際に訪れて
いない場所もまだまだあるので、実際に行ってみたら少しは匂いがするの
でしょうかね?

木地師はご存知のようにその祖を惟喬親王としていますが、彼らに限らず
職業集団の多くは皇室関係者等の貴種を祖と称していますよね。彼らは
移動しながら生活の糧を得ているのですが、その漂泊性からも常民から
差別される存在。故にその由緒の正統性、そして他地への移動の正当性
を主張する為に貴種を祖として皇室や時の権力者の許可状等を帯持して
いましたね。それが徳川体制になり、身分制度が確立し、移動すら難しく
なってきた。かなりの不満があったでしょう。で、同じく不満分子だった一部
の常民とも交流ができた事から更に伝承が伝承でなくなり真実味を帯びた
「伝説」が形成された・・・。とも考えていますが、如何でしょうか。
木地師等や「えた」身分には菊家紋が見受けられますし、マタギにも貴種
祖先説がありますよね。何よりも彼ら漂泊系はほとんどが南朝の協力者
でしたね。美作にも木地師系と思われる小倉(小椋)姓の豪族がいます。
徳川幕府に反感を持っていた彼らが敵対行動あるいはそれに準じた行動
なり企てがあった。それに対して幕府側が弾圧もしくはそれに準ずる対策
を打った。その事実が誇張されて伝えられたとも思わざるを得ません。、
以上が、現時点での美作後南朝への私の感想です。

その後南朝伝説が土佐には無いのは、やはり根も花も無さ過ぎたのかも
知れませんよね。尊良親王か満良親王の後裔と名乗る家系ぐらいあって
もよさそうなのに・・・w 安徳天皇自体は末裔伝説も聞いた事はありませ
んが、側近人物という家系は幾つかあります。

ピンポ~ン! ご先祖は武田の軍師と名が同じですw
そのご先祖も次男坊ですが、唯一生き残ったのがその男子で。もっとも
その前後に養子が入っていますし、多分に漏れず直系を名乗られる家は
他にもございますので更なる調査は必要ですが。
山内一豊に続いて今年は龍馬。長宗我部元親も大河ドラマ化してくれたら
もしかしてご先祖も登場するやも!と期待しているのですが・・・無理かw 

「東日流外三郡志」、先の「竹内文書」「富士宮下文書」、それに「九鬼文書
」「秀真伝」に「上記」や「先代旧事本紀」その他諸々・・・なかなか興味深く
読めますよね! 飽きさせない! そこが偽書と言われつつも一部で支持
を得ている所以なのかも知れませんよね。

三河後南朝伝説、私も少しずつですが勉強しなくては。
また、いろいろご教示下さいませ。

というところで、再び深夜の長話になってしまいましたが、
これに懲りませず、本年も何卒よろしくお願いたします。














Re: あけましておめでとうございます。

コメントが遅れました。
どうもこの時期は忙しさの極みです…。

> 万能峠を美作側へ少し下った所
> 天王谷はそこから万の台団地へ
おお、詳しくありがとうございます。
…やっぱり再訪だぁ(笑)。

> 「天王」はスサノオ信仰の由来地名
あれですね、牛頭天王ですね。
伊予の長慶天皇は牛に乗っているといいますし、
尹良親王伝説の津島神社も牛頭天王です。
牛頭天王信仰も追求してみたいですな。

> 実際に行ってみたら少しは匂いがするのでしょうかね?
少しは(笑)。まだ熊沢さんの時之島の方が濃かった。

> 徳川体制になり、身分制度が確立し、移動すら難しく
木地師自体は徳川幕府も認めていますね。
近江の君ケ畑と蛭谷に支配権を認めて身分を保証しています。
おそらくその支配権に属さない一統がいたのかもしれませんな。

> 「伝説」が形成された・・・。とも考えていますが
直接的に、美作木地師自身が主張していたのかも?
大内皇子という原型があることですし。
それを後世の人間が後南朝にしてしまった(笑)。

> 安徳天皇自体は末裔伝説も
以前ご紹介の横倉山に関してか、横倉天皇って自称天皇が
いましたね。

> 長宗我部元親も大河ドラマ化
おもしろいですけどね~。晩年が暗いのが惜しい!

> その他諸々・・・なかなか興味深く
うーん、おもしろいのもありますけどね、偽書性が一発で
見抜けるもの(東日流とか)は白けてしまいますね。
かと言いつつ、青森に行ったら東日流文書記載の南朝伝説の
所在地は訪ねたいと思っていますけどね(笑)。

 

ご多忙の中、ありがとうございます。

年明けの慌ただしさが続いていますが、ご体調にはお気をつけ下さいね。

万能峠の出土地、是非お訪ね下さい。
現地では観光資源の一つとして大きな看板を建てて整備したのでしょうが
後南朝、それも美作後南朝とあっては歴史の「表街道」を歩く方々には
今一つ「ピン!」とこないのでしょうね・・・その役割を果たせていないと
思われる看板が少し可哀想でした・・・。
出土した鏡の写真を見ても専門家ではない私には「?」ですw

そう言えば京都の八坂神社も牛頭天王を祀っていましたっけ?
全国的にも見られる「天王」地名ですが、転じて「天皇」と記せる事からの
伝承も結構あちらこちらにありますよね。

木地師についてはご指摘の通り、江戸期には幕府も彼らを認めているよう
ですね。現地に残る「氏子狩帳」も確認してきましたが、江戸期も半ば以降
になると全国の木地師への巡回回数も減ってきています。君ヶ畑と蛭谷の
「本家争い」の激化も手伝いその支配力も弱っていったでしょうし、もともと
支配に属さなかった者も南帝さんもおっしゃるようにいた事でしょう。そんな
者たちが近江の「本家」からの朱印に頼らずとも大手を振って木を伐って
生計を立てるには、やはり何かしらの権威が要る。平家落人を称する辺境
の家々のように、「偽系図」作成等を生業とする者の「入れ知恵」もあった
かも知れませんね。そうすれば、もとは近江への「上納」をしていた家でも
それが必要なくなる、とw 都合の良い(?)事に美作には大内皇子の話が
あった・・・それがいつの間にか後南朝伝説に。なるほど、頷けますね!

おっと、横倉天皇を忘れていました!w
吾川郡池川町の方でしたね。確かに池川の椿山辺りは横倉山に移られる
前に安徳天皇が滞在された伝説が残ります。横倉山はそこからかなり南
ですし、その後の移動経路からも「横倉」と名乗られたのはちょっと・・・と
思っておりますw

大河ドラマですが、奥州藤原氏のように国親~盛親までの長宗我部三代
を描くのは如何でしょう? あ、それだと我がご先祖は割愛されるかもw
と申しつつ、「龍馬伝」の影響で全国的に間違った土佐弁が広まる事を
危惧している土佐脱藩者ではあります。








ご無沙汰です。

私の投稿でこんなに反応があるとは驚きです。
我が家の史実に関して詳しく載せたいのですが、
80歳を越えた父も詳しいことは不明だとのこと。
寺の過去帳を調べるしか無いように思います。
それから、父が言うには、
行った事もないし場所も定かではないのですが、
我が家にまつわる墓所がどこかにあるらしいのです。
父にどこら辺りかもう一度聞いてみて探してみようと思っています。
何か新しいことが分かりましたら、投稿させて頂きます。

松王丸について書かれた古文書について

 あまり知られては無いようですが、大高坂城をめぐる合戦や松王丸について記述のある唯一の資料、”佐伯文書”は戦前より一部研究者の間では偽書であるという疑いが持たれているものです。この古文書は主に軍忠状といわれる文書を中心としたものですが、軍忠状とは分かりやすく言えば合戦の後、恩賞を貰うために上司に提出する戦闘報告書であり、提出する分一枚と、同じ内容が書かれ上司のサインをもらって下げ渡され、自らが保管しておく控えの分が一枚の計二枚からなっております。ところが佐伯文書の軍忠状には本人に下げ渡される本来一枚しかないはずの同日分の控えが二枚もあったり、しかもその二枚の内容が全く違っているにもかかわらず、二枚共上司の認めである”承了”のサインが記入されてあるなど、本来あり得ない大変奇妙なもので、恐らく江戸時代に偽造されしかも偽造途中のものではないかと言われております。また文書の中には太平記に見られる登場人物が登場していたり、(金沢左近将監などという、太平記では鎌倉幕府側の重臣であるはずの人物が何故か土佐に南朝方の武将として突然現れたりする。)シチュエーションも太平記からヒントを得たと思われる部分が見られるなど、とても奇妙です。このような極めて疑わしい文書が現在まで資料として残っているのは江戸末期の勤皇運動の盛んな時や昭和のはじめの国粋主義の台頭時この文書が当時きちんとした検証もされないまま、我が高知県にもかつて松王丸という南朝の忠臣がいた証拠として持て囃され、現在にまで至ってしまったのが原因と思われます。

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