南帝ラヂヲ

南朝・後南朝に関連する史蹟の現状を保存していきます。

スポンサーサイト

-- - --/-- [--] - --:--

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

藤沢遊行寺

2010 - 04/08 [Thu] - 23:09



神奈川県藤沢市は、鎌倉市のすぐ西にある人口40万人を超える大都市です。その発展の源となったのが、この清浄光寺(通称遊行寺)です。開創は正中2(1325)年に遡ります。一遍上人より数えて4代目の呑海上人がこの地に逗留した際に、土地の豪族に屋敷を提供されたのが始まりです。以来、時宗の総本山として崇敬を集め、藤沢もその門前町として発展してきました。

さて、南北朝当時の時宗はかなり重要な役割を果たしていました。太平記にも度々登場する、陣中僧です。これは戦場において戦死者を弔う僧のことですが、もちろんその働きだけではなかったでしょう。時宗は別名を踊り念仏と言い、漂泊の宗教でした。当然に日本各地の情勢に詳しくなります。各武将が自陣に時宗僧を置きたがったのも、まさにその情報収集能力の高さ故でした。これは南朝の宗教戦略において最も顕著に現れます。

後醍醐天皇は、曹洞宗と修験道の保護に意を用いました。後村上天皇も、普化宗(虚無僧)を味方につけていました。これらはすべて漂泊を基調としています。時宗を取りこまないわけがありません。

そこで重要な働きをしたのが尊観法親王でした。親王は亀山天皇の皇孫で、大覚寺統の誼で南朝に参じ、一説に後村上天皇の猶子となっています。正平15(1360)年にこの遊行寺で出家し、以降、日本各地の漂泊を重ねますが、元中4(1387)年に12世遊行上人に就きました。この時期の遊行寺はかなり南朝色が濃いように感じられます。後醍醐天皇の肖像画が残っていることや、時衆過去帳に南帝や南朝忠臣の名が記されていることがその証しでしょう。瀧川政次郎博士も遊行寺に注目していました。南朝の敗残者が多く逃げ込み、これを保護したこともあったことでしょう。このような寺ですので、肖像画や過去帳の他にも当時の遺物が残っています。

○敵味方供養碑(怨親平等碑、写真中)
東門そばにあります。元は、上杉禅秀の乱にて重傷を負い遊行寺にて自害した扇谷上杉氏定の墓でしたが、乱終息後の応永25(1418)年に、乱の敵味方を共に葬って供養の石塔を建てたものです。上杉禅秀父子も埋葬されているようです。

○宇賀神(写真右)
本堂裏の歴代上人墓の左手にあります。新田一族・得川有親の守り本尊でした。有親は12世尊観法親王の弟子となり名を徳阿弥と改めました。そして応永3(1396)年にこの地に勧請したということです。この徳阿弥の子孫が徳川家康ということで、遊行寺は江戸幕府の庇護を受けました。

この他、長生院に小栗判官の墓がありますが、これについては違う機会に触れたいと思います。

 

大きな地図で見る

 

コメントの投稿





管理者にだけ表示を許可する

 | HOME | 

最近の記事

スポンサードリンク

こよみ

最近のコメント

月別アーカイブ

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク

点取り占い様

点取り占いブログパーツ

アルカナツール

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。