南帝ラヂヲ

南朝・後南朝に関連する史蹟の現状を保存していきます。

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観修寺

2011 - 09/07 [Wed] - 15:55



宇治・六地蔵から山科に抜ける京都市地下鉄東西線沿線約10kmの小盆地は、平安時代より藤原氏の所領でした。その中間あたりの東麓に醍醐寺が(写真)、そして歩いて半時間ほどの西麓に観修寺が創建されました。特に観修寺は創建者である藤原高藤の子孫たち(観修寺流と称す)の拠り所でした。ちなみにこの観修寺流に属する家としては、吉田(甘露寺)・万里小路・中御門・葉室・上杉があり、後醍醐天皇の側近グループを構成しています。観修寺には持明院統の後伏見天皇の皇子が長吏となっていましたが、醍醐寺に文観を入れて、目と鼻の先の観修寺をも大覚寺統に引き入れようとしていたのかもしれません。

その観修寺の南西、名神高速道路沿い、少し山の中ですが道からほんの数分歩いたところに、霊元天皇皇子・深済法親王の宮内庁管轄の観修寺宮墓地があります。その敷地左手に、やや新しい感じの宝筐印塔が建っています(写真)。これが観修寺惣墓塔です。豊臣秀吉の時代に道路を移設した際、観修寺歴代の墓地を破壊してしまったとかで、明治時代になって新たに供養塔を建てたということです。側面には観修寺歴代長吏の名前が刻まれています。中でも注目すべきは「尊聖大僧正」「教尊大僧正」の文字です(写真)。

尊聖大僧正は史料には「佐山宮尊聖」として現れ、長慶天皇の皇子でした。天授2(1376)年生まれ、出家した年は不明ですが、応永末頃には南都釜山口寺にいました。正長元(1428)年7月28日に観修寺の長吏となります。実はこの応永35/正長元年は政治的に激動の年でした。まず1月18日、4代将軍義持が死にます。後継将軍を決めていなかったため、前代未聞のくじ引きによって6代将軍に義教が決定します。さらに7月20日には称光天皇が嗣子なくして崩じます。これは持明院統の正系が途絶えるという、将軍後継の不在よりもはるかに深刻な事態でした。旧南朝勢力が待ち望んだ状態になったわけです。皇位は大覚寺統に移るかに思われました。

しかし幕府首脳は周到な準備をしていました。伏見宮貞成王の皇子・彦仁王を擁立したのです。皇位はあくまでも持明院統の独占としたわけで、当然に旧南朝勢力は、元中和約違反と激しく反発します。彦仁王擁立の情報をつかんだ後亀山天皇の皇孫・小倉宮(後の聖承)は、子息(後の教尊)を伴って嵯峨野を脱し伊勢国司北畠氏を頼ります。そうして北畠満雅は再び挙兵し、討伐軍と激戦となりました。このような情勢下での観修寺入室の意味は、尊聖が旧南朝勢力に奉戴されないために、あるいは監視をするための方策であったと思われます。

さて数年も経たたない永享2(1430)年11月、突然尊聖は長吏職を免ぜられます。「狂心(=精神の故障)」が理由とされています。ちょうどこの頃、伊勢に出奔していた小倉宮父子が京都に帰って来ました。どのような条件での合意があったのかは明確には知られていませんが、子息が将軍義教の猶子となり「教尊」と名を変えて出家、観修寺長吏に任じられています。経済的な保障もあるし醍醐寺と目と鼻の先で監視もしやすいということもあったのでしょう。尊聖はとばっちりを食って強制的に長吏を辞めさせられた感があります。以降、尊聖は表舞台から姿を消しました。没年はそれほど年月を経ない永享4(1432)年7月、享年57歳、墓所は不明です。

いま一人の教尊大僧正ですが、先述したごとく、「御位競望の宮」と記されたほどの後南朝勢力の中心的な存在でした。しかし観修寺入室以後は、父子ともに幕府体制の中で従順に生きていたようです。護持僧となり、嘉吉元(1441)年6月23日には将軍義教のための祈祷をしています。

ところがその運命は三たび大きく変わることになります。翌24日、赤松満祐が将軍義教を暗殺してしまうのです。いわゆる嘉吉の変です。教尊が望むと望まないとに関わらず、彼の周辺はきな臭くなっていきます。幕府は大混乱に陥りますが、後継将軍にわずか8歳の義勝を立て、何とか満祐を討伐しました。満祐は幕府に対抗するために足利義尊(直冬の孫)を擁立し、さらに朝廷に対抗するため教尊の弟(聖承の末子)を引き入れようともしましたが、聖承は同意しませんでした。なので教尊もその地位を奪われることなく切り抜けたようです。しかし幕府の弱体化は明らかで、嘉吉の乱の2年後の嘉吉3(1443)年には、追い討ちをかけるように義勝が死去します。後継となったのは、これまた幼い8歳の弟・義成(後の義政)でした。

これを好機と見て取った旧南朝勢力がついに動きます。すなはち嘉吉3(1443)年9月23日深夜、神泉苑に集まった200人ほどの武装集団が土御門御所を襲撃したのです。火がかけられ、後花園天皇も斬りつけられて命からがら脱出するなど、大混乱に陥ります。集団は宝剣と神璽を奪うと東の方に去っていきました。これがいはゆる「禁闕の変」です。詳しくはまた後日の記事にゆだねますが、結局頼みとした比叡山が幕府についたために政権転覆までには至らず、集団は玉砕してしまいます。そして翌日から与同者の検挙捕縛が始まりました。その中に、教尊が含まれていたのです。関係があったかどうかというよりも旧南朝勢力をこの際一掃してしまおうという意図で捕縛されたのでしょう。はかばかしい審理もなしに、慌ただしく隠岐流罪が決められました。以後、教尊の消息はわかりません。隠岐で薨じたとされ、知夫里島には供養塔があると聞きます。捕縛されたときに25歳、流罪後すぐに亡くなったとすれば悲哀が漂います。本人の意思よりも周囲の政治情勢に常に翻弄された方でした。恐らく観修寺で仏道修行に励んでいたときが一番幸福なときだったのかも知れません。機会があれば隠岐の供養塔にもお参りしたいものです。

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