南帝ラヂヲ

南朝・後南朝に関連する史蹟の現状を保存していきます。

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三河吉野朝(3)

2010 - 12/08 [Wed] - 13:24



午後からは蒲郡に場所を移し、その近辺の史蹟探索です。三河吉野朝伝説を纏めた本によると、現在の蒲郡市の北方に「卍山」という霊山があり、その麓の多賀の里に後村上天皇が北畠親房らと共に秘密の行宮を営んだ、ということです。卍山とは、どうやら現在の五井山にあたるようです。それゆえに、五井山の麓には無数の吉野朝関連の史蹟が遺っていると云うのです。かなりマイナーな史蹟だけに痕跡さえ遺っているかも微妙ですが、後南朝愛で…(以下略)。


正法寺(写真左)
見たところ普通の小さな山寺です。日蓮宗。門前に塚があり新待賢門院を葬ったものと伝わっていますが……どこに?!別の伝説本によるとそれらしき小山があるらしいのですが、よくわかりませんでした。ただ辺り一帯には古墳が点在していたらしいです。


不動院
三河御津府の中心とか。確かに周辺の寺院に比べて大きめで歴史も古いようです。水の神を祀っている。痕跡は…ないね。


相楽神社
蒲郡の伝説には、後村上天皇をお祀りした"兎頭神社"という社がたびたび登場します。しかしそんな名前の神社は周辺には見当たりません。位置的にはこの相楽神社が最も適しているようなので立ち寄りました。雰囲気はとても良い神社で、展望が開けていますが、それだけ…。何度も言うが、ご祭神の明記は必要だと思うんだ!


観心寺址(写真中)
御堂山の中腹にあり、もともと全福寺とその僧坊で殷賑を極めていたので、後村上天皇と北畠親房らがまず入ったところとされています。後に天皇が崩御すると、河内観心寺に因んで全福寺内にも観心寺が建立されました。現在は"さがらの森"という公園になっています。園内に"全福寺跡"の表記はありましたが、どこがそれかわかりませんでした。


西浦無量寺(写真右)
蒲郡一帯には他にも様々な伝説の地が点在していますが、時間の都合上、やや遠いところにある西浦無量寺へ向かいます。この寺は"ガン封じの寺"として有名です。駐車場より寺に向かうと、インド風の塔が出迎えてくれます()。本堂の立派さが、古寺の風格を感じさせてくれます。

伝に曰く、北畠親房発案の東国経略に同道した後醍醐天皇の皇女・灌子内親王が西浦岬に漂着しました。後にこの無量寺に入って落飾し、一説にここで亡くなったとも言われています。大きな松の根元に五輪塔があり、灌子内親王の墓と云われています。この話はあとから知ったので、お墓は未確認です。温泉もあって風光明媚ですので、またお参りに行きたいと思います。


白山神社
以前の記事で南朝伝説には万里小路藤房の伝説がつきものだと言いましたが、やはり三河の伝説にも藤房の伝説が含まれていました。藤房は卍山の北麓、豊川市金野の里の寺に陰棲し同地で死去、遺骸は観音寺に葬られたと伝わります。観音寺は今はありませんが、五輪塔が残ると聞き、白山神社に行くことにします…が!山を登るにつれて道は細く曲がりくねっていきます。軽自動車を借りていたのですが、それさえも通行が厳しい道でした。よってついに断念しました。機会があれば今度はバイクで行ってみたいと思います(懲りん奴(笑))。

さて、蒲郡周辺の探索はこれで終えて、もう一つ別種の伝説の探索に向かうことにします。結局この伝説には痕跡すら遺っていなかった…。


三河吉野朝をまわってみて感じたのは、どうも古墳を南朝皇族の陵墓としているのが多いということです。車神社もそうでしたが、端的な例は、名電国府駅の近くにある船山古墳です。埴輪が出土するなど、築造時期は疑いようもなく古墳時代です。それを三河吉野朝伝説首唱者は、長慶天皇の御陵だとしています。伝説の素地は魅力的なのに、こういう考証性のなさが非常に残念なところです。

 

三河吉野朝(2)

2010 - 10/26 [Tue] - 22:49



三河吉野朝歴訪2日目は、レンタカーを借りての旅です。まずは渥美半島を目指します。古来より渥美半島は紀伊半島と海路で結ばれていました。鎌倉時代の東大寺再建の折には、伊良湖岬で瓦を製造して大和に運んでいました()。現代でも伊良湖岬と鳥羽の間をフェリーが結んでいます。

そして南北朝時代当時も、数多くの南朝の人々がこの海上ルートを伝って行ったことでしょう。特に有名なのは、義良親王や北畠親房が東国経営のために伊勢より出航したものです。遠州灘沖で嵐に遭って船団は散り散りになってしまいましたが、義良親王が渥美半島に近い篠島に漂着するなど、多くの南朝人士が上陸した可能性が高いです。この事実を前提にすると、渥美半島には三河吉野朝伝承の原型のようなものがあると思われます。期待に胸踊らせながら渥美半島に向かいます。


車神社
豊橋駅から国道259号線を車で15分ほど、植田橋を渡ったたもとの集落に坐ます。境内がなかなか広い大きな神社です。三河吉野朝伝承によると、後醍醐天皇第十二皇子・聖助法親王が付近の植田で亡くなられ葬られたのでお祀りしているそうです……が、まぁやっぱり何もないね。しかし本殿背後に古墳時代の古墳があり、その当時から開けた土地であることを示しています。


長慶寺
車神社から15分ほどで着きます。境内墓地の無縁仏の後ろに五輪塔があります(写真最左)。風化して銘も読めませんが、これが目当ての弘仁太子の墓だと思われます。案内看板によると、弘仁太子は土御門天皇の皇子で東国に赴く途中、元久2年(1205)この地に来て居住し17年後に切腹した、とのことです。しかし寺名とも相俟って、太子は長慶天皇(長慶院法皇)であるとの説もかなり有力なようです。貴種流離譚の典型です。しかし、後南朝的なにおいが濃厚に漂っていました。


久丸神社(写真中左)
長慶寺よりまたまた15分ほど、渥美半島の中心都市である田原市街に着きます。国道259号線の郷仲交差点を北に曲がります。100mほどで左手に神社があります。これが久丸神社です。客観的には何の変哲もない神社です。祭神は"久丸明神"、正体がよくわかりません。一説に継体天皇の皇子とも云われていますが、根強いのは、南朝の皇子だとの説です。

伝に曰く、足利幕府に追われた南朝の久丸皇子が楠九郎太夫と共に当地に来てそのまま住まわれた、とのことです。久丸神社の神主を代々務めてきたのが楠氏だということもこの説を後押ししています。三河吉野朝伝承では松良親王となっています。管理人はこの久丸皇子こそ一連の三河吉野朝伝承の原型と考えています。先の長慶寺の弘仁太子との同一性も気になるところです。かなり身分の高い南朝関係者が渥美半島に来たことは確かだと考えます。


霊山寺
足利義政に取り入って権勢を揮った烏丸資任が、応仁の乱を避けてその所領であった伊良湖岬へ移り住みました。後に「潔堂義俊」を勧請して一寺を開きます。これが霊山寺です。資任は当地で死没し、縁深いこの寺に葬られました。墓は隣りのグランドの隅に"烏丸の墓"として遺っています(写真中右)。因みに案内看板で「烏丸」と呼び捨てられていて、ちょっと噴きます。


常光寺(写真最右)
霊山寺より県道2号線を南へ下ること10分のところにあります。門前に蘇鉄が植わっていたりして、やや南国気分です。寺名からもわかるように楠木正勝が開基となった七つの常光寺の一つで、最初に開かれたのがこの常光寺と云われています。

すなはち、正勝は渥美半島に脱出し小久保輝信と名を変えて潜居しました。小久保は先の五井八面神社付近の地名が小窪といったことに因んでいる、という説もあります。伊良湖に下ってきた烏丸資任と三河吉野朝を盛り立てますが、退勢挽回しえず、長禄年に95歳で死去、埋葬されます。後に烏丸資任は「傑堂能勝」を勧請して一寺を建立しました。これが常光寺です……ってあれれ?正勝が死んでから建てられたの?じゃあ七常光寺は誰が建てたのかね!寺伝には、応仁2年に烏丸資任によって「潔堂義俊」を開山として開かれたとあります。恐らく事実はこれのみでしょう。


結局、当初期待していたほどの収穫はありませんでした。だからといってこの地の南朝伝説が一切否定されるものでもありません。あれこれと想像ができるという意味では、なかなか楽しい土地です。もっといろいろ知識をつけて再訪したいです。

 

三河吉野朝(1)

2010 - 10/13 [Wed] - 10:02



去年は西の美作後南朝に行ったので、今年は東の三河吉野朝を巡ってきました。かなり広い地域に点在しているため、2日に分けています。まず初日、JR東海道線の愛知御津駅を13時に出発です。雲一つすらない快晴、気温はとうに35℃を超えています。後南朝愛(?)で頑張ります。


長松寺:豊川市御津町
愛知御津駅より南東に1kmほどJR線路沿いに行った村中にあります。応永23年に足利軍に抵抗して散った山伏の供養塔があるとか……ないか。長い年月の間に失われたのだな。きっとそうに違いない。次に行こう。


常光寺:豊川市御津町
尾張・三河には楠木正勝が開いたという七つの常光寺があり、その一つがこの御津町にあります。長松寺から北東に1kmほど、太陽の炎熱を何も遮るものがない田園地帯を延々と歩いてようやくに着きます。寺号や山号を書いたものが何もありません(写真)。菊水の紋もありません。しかし幸いにも塀に由緒を書いた看板があります。正勝の開基ということは応永年間あたりの創建か、なかなかに古い寺だな……天正2年!1574年か!戦国時代やないか!あれれ!


望理神社:豊川市森(写真左)
常光寺から北西に600mほど歩いた付近一帯はもと望王里と称し、長慶院法皇の仙洞御所があったとか。別名・王田殿、長慶院法皇がこの地で崩御したので後に祭神として祀るようになった……と伝わりますが、それを示すものは何もないね。ご祭神の明示は必要だと思うんだ!


守公神社:豊川市国府町(写真中)
御津町を離れ国府町に入ります。望理神社から北西に2kmほど歩いています。国府駅の近所に守公神社という名の神社が鎮座坐す。三河吉野朝の伝承では、北畠一族を祀っているということです。親房の子・顕信の次男である北畠守親公の親の字が抜けて、それで守公神社と……うーん、苦しいなぁ。ちなみに北畠守親は顕信の次男で、浪岡北畠氏の庶流・川原御所の祖、主な活躍場所は奥州だ!


八面神社:豊川市国府町
前回述べた「楠社」。今まで裏切られ続けた(!)だけに、とても嬉しかったです。近くに内藤左金吾国幸の塚があったとか。内藤満幸(楠木正行の舅)の縁者っぽい名前、やはりここは楠木正行に関する所でしょうか。


御坊塚:豊川市赤坂町(写真右)
八面神社からさらに西に歩いていきます。500mほどで御油の松並木です。かなり背の高い松の木に驚きつつ、通り抜けていきます。並木の終わる近くにアパートがあり、その駐車場に入っていきます。やや奥の方に、一本の木が植わってあり、その根方に小さな祠と五輪塔があります。これこそが長慶院法皇の皇子・松良親王の墓所である「御坊塚」です。側に三浦家の墓があります(写真)。三浦天皇(芳聖)もここに眠っているのでしょうか。それと知らなければまったくわからない場所ですが、痕跡が遺っていてほっとしました。


豊川稲荷:豊川市
後醍醐天皇が信仰したことで有名なダキニ天を祀ります。だから南朝関係の何かが遺ってないかな…と訪れたのですが、開創嘉吉元年、境内整備は江戸末期ということで、全く何もありませんでした。むしろ東南800mのところにある、後醍醐天皇皇子・無文元選禅師が開いた三明寺の方に何かが遺っているのかもしれません。


初日は以上で終わりです。やっぱり殆ど何も遺ってなかったですね…。しかし八面神社のように、伝承の生まれる素地があったことを確認できたのは大きな収穫でした。

 

五井八面神社

2010 - 09/16 [Thu] - 14:25



江戸より京に向けて東海道を上ると、現在の愛知県に入って最初の宿場が二川、次に吉田、そして御油、赤坂と続きます。現代の東海道は国道1号線ですが、旧東海道も並行しています。蒲郡信用金庫そばの"御油一里塚"を過ぎて西に行くこと500mほど、住宅地の中に、それと知らなければまずは気づかないような、一見どこにでもあるような小さな社があります。名称は「八面神社」です(写真左)。

本殿向かって右に小さな看板が掲げてあります(写真中)。曰く、

「楠社
御祭神  楠正行
天文年間奈良吉野蔵王堂前
正成正朱と別れ供七武将と
計八名で一時尼寺如意輪寺
に落着き後に東三河まで落
人になって現在に至る
当時社殿建築の誉あり伊奈
色野大工二名(太夫)で建築す
天文、延宝、明治の棟札を
現存す当時社殿横に楠の苗
一本を植り途中火災に合い
一部残り現在に至る
現社殿は昭和三十八年改築
祭礼は例年九月二十七日」

すなはち、楠木正行を祀った神社だと云うのです。

そもそも管理人がこの社を訪れたのは、"楠木正儀"を祀っていると聞いたからでした。三河吉野朝の伝に曰く、正儀は、三河王田殿へ御所を構えた長慶天皇を守って、三河の赤坂落合の地で足利軍と交戦し、戦い利あらず同地で戦死したと。後にこの八面神社に正儀始め七人の忠臣を祀ったとあったのです。

正儀は"河内落合"の合戦に敗れて以降、歴史の表舞台から姿を消し、どうやら河内千早城で病死したと考えられています。ですので、本来ならこの三河に伝わる伝承は一笑に付されてしかるべきものです。しかし尾張の三法神社のように地元に大切にされている場合もあり、三河はどうかと思って来てみたのでした。楠木正儀でなくて残念(笑)でしたが、楠木正行だったことは嬉しい誤算でした。

三河一帯には楠木氏の伝承が点在しています。正成・正季・正儀・正勝と、一族総出演です(笑)。五井八面神社の楠木正儀のようにやや無理のあるものもありますが、それらの伝承の根底には、楠木一族が確かに三河にやって来たことがあるように思われます。足助氏との関係があるのか、それとも三河萬歳か、河内鋳物師か。背景事情を考えるのが楽しくなる場所でした。

なおその夜、泊まったホテルでテレビを見ていると、何と十津川の楠木正勝の墓が放映されていました(写真右)。毎年4月に墓供養が行われているそうです。国営放送のハイビジョン番組だったので、家では見れないものでした。なかなか運命的な偶然でした(笑)。

 

尊義親王墓

2010 - 04/30 [Fri] - 14:21




さらに奥に続く道を辿っていきます。沢に降り、再び対岸に渡ります。「尊義親王墓→」の道標に従って進み、左の丘を登っていきます。30mほど登ると、檀が設えてある上に石柱・石碑が見えます(写真左)。石柱には「尊義親王御墓」と彫られてあります(写真中)。

尊義親王は、別名・万寿寺宮とも空因法親王とも申し上げ、伝承によると、後亀山天皇皇子・小倉宮実仁親王の子息ということになっています。禁闕の変で神璽を奪取した後、まず近江君ケ畑に潜伏、次いで川上村に潜幸して八幡平に御所を置き、即位の礼を執り行ったとされています(中興天皇)。親戚筋の円満院宮円胤法親王(還俗して義有王)を征夷大将軍に、楠木正秀を軍師に任じて、主に紀伊方面で活発に行動させます。しかし義有王らが紀伊湯浅付近で討ち死にすると、八幡平御所も幕府軍に狙われるということで、奥地の隠し平行宮に潜幸したわけです。当時尊義親王には二人の子がありました。後の自天皇(尊秀王)と河野宮(忠義王)です。三人の貴人がいた場所ということで、この地を特に「三之公」と言うわけです。

尊義親王は三之公行宮で南朝復興を画策していましたが、病を得てついに1455年、崩御してしまいます。これを悲しんだ後南朝一統と里人たちは、遺骸をこの地に葬って供養しました。実際お墓とされているこの場所は、沢がすぐ近くを流れているにもかかわらずほとんどその音がしません。墓所にふさわしい安眠の地と言えましょう。

さて15分ほど休息をとり、三之公行宮を後にします。帰りは下り勾配が主ですので足が止まることなく歩き続けます。ただ道幅は細いので転ばないように気をつけねばなりません。40分ほどかけて明神滝出合にまで戻りました。

せっかくなので、かなりの急勾配を下って明神滝見物に行きます。途中に二階建ての高さほどもある巨岩があります。後に知るところによると、この岩は「宝」と言って神璽をその裂け目に隠していたとか。5分ほどで河原に着きます。滝は圧倒的な水量をもって轟音をたてて目の前に落ちています(写真右)。しばらくぼーっと眺めていると、疲れもかなり癒されました。元気を回復して明神滝を後にします。

そして登山口に戻ります。時刻は16:30を過ぎていました。体力も気力もかなり使ったのでヘトヘトになりましたが、一生に一度行けるかといった秘境の聖地を拝した満足感がありました。



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