南帝ラヂヲ

南朝・後南朝に関連する史蹟の現状を保存していきます。

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赤松氏の末路

2009 - 10/29 [Thu] - 14:11

1256793072-赤松義村墓.jpg1256793071-大物くずれ1.jpg1256793070-赤松晴政義祐墓.jpg

さて、後南朝二皇子の血の上に再興された赤松氏はその後どうなったのでしょうか。時は応仁の乱前後、すなはち、下剋上の嵐が吹き荒れる戦国時代への過渡期でした。赤松氏も例外なくその嵐に襲われます。

もともと再興は、小寺豊職をはじめとする遺臣たちの尽力によってなされたものでした。また三ヶ国の太守に返り咲いたのも、浦上則宗の八面六臂の活躍によります。いきおい、功績のある家臣たちが重臣として力を持つことになりました。実際、赤松政則と浦上則宗が対立して政則が堺に逃亡したという事件も起こっています。もっとも山名氏の侵攻という非常事態下にあり、また浦上則宗も主家を凌ぐ野心を持っていなかったので、このときは和解が成立しました。

政則が急逝し、家督は養子の赤松義村が継ぎました。浦上氏は村宗が、小寺氏は政隆が当主となっていました。この浦上村宗が勢力を拡大して独裁的に権力をふるうようになります。村宗は自分の利益しか考えなかったようで、当然反発する動きも出てきます。浦上一族の浦上村国が反村宗の旗を挙げ、これに赤松義村・小寺政隆らが与します。かくして赤松家は村宗派・反村宗派に二分されてしまいました。

赤松義村が与していることもあり、当初は反村宗派が優勢でした。しかし村宗の重臣・宇喜多能家が反村宗派の軍を破るに至って形勢は逆転します。そして赤松義村は幽閉され、後に殺されてしまいました。置塩城に近い浄安寺址に、この義村の供養塔が残されています(写真左)。義村の次は晴政が当主となりましたが、もはや実権はありませんでした。村宗は小寺政隆を討ち取るなど、ますます専横の度合いを強めていきます。

一方、京都では、幕府の実権を握っていた管領・細川政元が暗殺され、その勢力は澄之・澄元・高国に三分されていました。まず澄之が脱落し、澄元と高国の争いになります。京都に近い播磨を領していた赤松氏もこの争いに巻き込まれ、村宗は高国方に、晴政・小寺則職(政隆の子)は澄元(及びその子晴元)方につきました。そして高国と晴元は摂津天王寺・中島付近で激突します。勢力が均衡していたために、戦線は膠着状態でした。しかし晴元方の三好元長と赤松政祐の攻撃により高国方は大敗を喫し、その軍は崩壊します。参陣していた浦上村宗も摂津大物で討ち取られました。これを"大物くずれ"といい、阪神大物駅近くに碑が建っています(写真中)。

しかしこの事件により赤松家はいっそう乱れることになります。またにわかに強大化した出雲の尼子氏が備前・美作に進出してくるという事態もあり、赤松本家の求心力は著しく低下します。結果、浦上氏は村宗の息子である政宗・宗景が備前・美作を領して自立します。また東播磨の守護代であった別所氏、西播磨の小寺氏も独立指向を強めていきます。加えて赤松本家自体も、晴政・義祐親子が対立し、弱体化に拍車をかけることとなりました。置塩城下、松安寺址には親子が仲良く眠っていますが(写真右)、そこへ至る道は現代でもあまり整備されておらず、末期赤松氏の悲哀を充分に感じさせてくれています。

そして義祐の子の則房の代では豊臣秀吉の一家臣として阿波板野郡住吉1万石の領主にありつきます。さらにその子の則英の代には、関ヶ原の合戦が起こります。則英は西軍につき、戦後、福島正則を頼りますが許されず、京都戒光寺にて自害させられます。円心以来300年にわたって勢力を誇ってきた赤松氏もここに潰えてしまいました。

 

南帝山

2009 - 10/18 [Sun] - 03:24

1255803847-清慶寺1.jpg1255803846-清慶寺2.jpg1255803845-清慶寺3.jpg

国道372号線は、京都府亀岡市と兵庫県姫路市を結ぶ幹線国道です。姫路より1時間ほど車で走ると加西市中野町のあたりにやって来ます。その名も加西中野交差点のすぐ側に「清慶寺」があります。境内はさほど広くありませんが、本堂はかなり大きく立派です。本堂の向かって左には県指定文化財の石塔や板碑があります。右手には白塀で囲まれた土盛があり、その頂にまた石塔が建っています(写真)。こちらは比較的新しく、葬られた人の名を刻んでいます。「仁尊親王」とあります。聞いたことのない親王ですが、左右に小さく「後醍醐天皇御曾孫」「吉野御所奉〇〇〇」ともあります。後醍醐天皇の曾孫とは長慶天皇か後亀山天皇の子ということになります。吉野御所という文字から後亀山天皇系でしょうか。いずれにせよ後南朝に関係する親王の墓のようです。この寺の山号が「南帝山」となっている由縁です。

石塔の字句を文字通り受け取るとすれば、被葬者は、史料にいう小倉宮恒敦王、伝承にいう小倉宮実仁王となりそうです。しかしこの地に伝わる伝承では、いささか違うようです。

曰く、嘉吉の乱により滅亡した赤松宗家の復興を目指し、その遺臣たちは、後南朝朝廷のもとにある神璽の奪取を企図します。この遺臣の一人に中村助直がおり、その家来に小谷与次がいました。この中野の出身で、清慶寺付近にあった中野居館に住まいしていたそうです。与次は忠阿弥と名乗って奥吉野へ潜入します。そして後南朝朝廷に現れ、持ち前の画力を以て後南朝二皇子(いわゆる自天王・忠義王)に取り入ります。皆の馴染みになった頃合いを見計らい、自分が赤松氏の関係者であることを明かし、赤松一党が仕えることを申し出ます。疑う向きもなかったではないですが、与次の献身のかいあって、赤松一党は首尾良く後南朝に仕えることになりました。

当初一党は誠心誠意、後南朝に尽くしたようです。この時期に後南朝は、吉野へ進出して愛染宝塔で金峯山寺衆徒と戦っています。赤松一党が加わったことで積極策に打って出たのでしょう。一党も命を懸けて奮戦したことでしょう。

しかしそれも長くはありませんでした。すなはち長禄元年(1457)12月2日、赤松一党がついに本性を露わにして牙を剥きます。後南朝二皇子を襲撃して殺害、その首級と神璽を奪って逃走したのです。世に言う、長禄の変です。

川上村の伝承では首級も神璽も奪還されたことになっています。しかし一説に、神璽は奪還されたものの首級は持ち去られ、足利幕府に引き渡されたとされています。この首級を保管していたのが小谷与次でした。幕府にとって必要とされたのは、自天王と称していた兄宮の首級だけでした。弟宮の首級は不要とされたのです。そこで与次は、弟宮の首級をこの清慶寺に懇ろに葬り香華を手向けたのです。裏切ってしまったとは言え、後南朝二皇子は慣れ親しんだ相手です。与次もかなり苦しんだのではないでしょうか。

弟宮の御墓は川上村にあります。しかし後南朝の悲劇をより伝える遺跡として、この清慶寺の南帝塚こそ真の御墓ではないかと思えてなりません。



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足利義教の墓

2009 - 09/25 [Fri] - 15:05

1253858705-播磨安国寺.jpg1253858704-足利義教首塚1.jpg1253858702-足利義教首塚2.jpg

赤松政則の墓のある長円寺より20km程度東に、加東市新定という地があります。中国縦貫自動車道ひょうご東条インターから車で10分ほど南西に走ると、播磨安国寺があります。安国寺は正式には安国寺利生塔と言い、足利尊氏・直義兄弟により一国一塔を目して建てられました。南北朝の争いで亡くなった人々の冥福を祈るための寺でしたが、足利氏ゆかりの寺と言えます。

嘉吉元年(1441)6月、赤松満祐は将軍足利義教を自邸に招待しました。関東での永享の乱の終息や、弟の大覚寺義昭が日向で討ち取られたことに対する祝宴との名目でしたので、義教はわずかな供回りを連れたのみで赤松邸に入りました。邸内の池には子鴨たちがかわいらしい姿を浮かべ、能が催され、大杯が行き交います。そうして宴も酣となった頃、忽然大きな音が轟きます。どんよりとした曇天だったため雷の音かと思うや、突如武装した兵士たちが会場に乱入してきました。義教は一撃で倒され首級を挙げられてしまいました。万人恐怖、薄氷を踏む時節と言われた将軍独裁の世を作り上げたキレ者義教のあっけない最期でした。将軍犬死と評された暗殺事件、嘉吉の乱の勃発です。

首尾よく義教を討ち果たした満祐はしばらく自邸に留まり幕府の出方を伺いました。しかし混乱の極みにあった幕府は何ら有効な手が打てません。見極めをつけた満祐は、自邸に火を放ち義教の首級を先頭に播磨へと下向していきました。その後、播磨城山城に立て籠もって討伐軍と戦い赤松宗家はいったん滅亡したことは以前に触れた通りです。

ところで義教の首級はどうなったのでしょうか。その所在には二説あります。一つは、播磨下向途中で立ち寄った摂津崇禅寺に置き捨てていったという説。そのため崇禅寺は五輪塔を有し義教の菩提寺となっています。もう一説は、播磨に戻ったあと、この播磨安国寺にて盛大な法要を催したというものです。その後、首級は幕府方に返されたとかで、この安国寺にあるのは供養塔となっています。安国寺の境内から少し離れた裏手に、苔むした塔が建っていました(写真)。

南北朝・室町時代を通じて、時代の趨勢を決してきたのは赤松氏でした。実に興味深い一族です。



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赤松政則の墓

2009 - 09/17 [Thu] - 04:09

1253128143-長円寺.jpg1253128142-赤松政則墓.jpg1253128144-性海寺3.jpg

兵庫県加古川市の北部に加西市があります。市役所のある旧北条町市街より県道410号線が西に伸びており、車で5分ほど走り福居町公民館の手前、案内看板に従って細い道を入っていくと、小さな寺に着きます。これが長円寺(写真左)です。

本堂左手より裏山を少し登ります。木の根元に2基の五輪塔が寄り添うように建っています(写真中)。何も表記がありませんが、これが今回の訪問の目的です。すなはち、赤松政則の墓です。

赤松政則は、偏諱の"政"を見てわかるように足利義政の時代の人物です。康正元年(1455)に生まれ、幼名を次郎法師丸と言いました。そして京都建仁寺で養育されます。それには理由がありました。

政則の父は赤松時勝(法名性存)、赤松義雅の子でした。この時勝がまだ千代丸と名乗っていた幼少の頃、赤松家に一大事件が勃発します。赤松義雅の兄・満祐が将軍足利義教を暗殺したのです。いはゆる嘉吉の変(嘉吉元年・1444)でした。

赤松家は幕府軍に攻められ、播磨城山城で満祐が自害して乱は終息します。その際、義雅は息子の千代丸を連れて、幕府軍にいた一族の満政のもとに出頭し自害しました。満政は遺志を汲んで千代丸を匿います。千代丸は三条家次いで建仁寺に預けられます。

かくして千代丸は建仁寺で育てられ、長じて時勝となります。寺の外では満政をはじめとする赤松一族・遺臣がお家再興の戦いを繰り広げていましたが、播磨の新守護・山名持豊(宗全)の前に敗れ去ってしまいます。そして時勝は次郎法師丸をもうけますが、その後ほどなく死んでしまいます。こうして次郎法師丸は建仁寺で育てられることになるのです。

ところで次郎法師丸が生まれた康正元年周辺は、後南朝が神璽を擁して正統性を主張して、大和・紀伊で活発に活動している時期でもありました。幕府にとっては畿内の安定を欠く目障りな存在だったことでしょう。赤松遺臣たちはそこに目をつけます。三条家を通じて幕府に、神璽の奪還と後南朝の討滅を自分たちの手で行うことを申し入れます。首尾よく成し遂げたあかつきには、赤松家の復興が約束されていました。

そして長禄の変(長禄元年・1457)が起こります。この時には神璽は奪えなかったものの、翌年、小寺性説により神璽が京都にもたらされます。これで悲願の赤松家の復興が実現します。次郎法師丸が召し出され、名を政則と改めて加賀半国の守護に任じられます。

政則は播磨復帰を望みました。そこで山名氏との対抗上、細川勝元に接近しました。応仁の乱では東軍として活躍します。その甲斐あってか播磨・備前・美作の守護となり、念願の播磨復帰を果たしました。

ただ山名氏との抗争は応仁の乱後も続きました。重臣浦上氏の援軍の求めに応じず、自ら但馬真弓峠に山名軍を迎撃するも敗北を喫し、それがもとで浦上・小寺氏と対立、一時堺に身を避けると言った危機もありました。これが後年の戦国下剋上に繋がりますが、この時は和解が成立して政則は播磨に戻りました。

以降の政則は幕府に重きをなしていきます。細川勝元の娘(政元の妹)を娶って地歩は盤石、そして足利氏以外では初めて、従三位にまで登ります。政則は絶頂期を迎えました。

その2年後。政則は坂田荘に狩猟をします。ところが発病し、この長円寺で死去してしまいます。享年42。あまりにも唐突な死は背後に何らかの事情も伺えないこともないですが、ここでは詮索しません。

葬儀は政則が本拠にしていた置塩で行われました。その置塩城下には性海寺があり、政則の念持仏を胎内に納めた仏像があるそうです(写真右)。

後南朝にとっては敵も同然ですが、長禄の変の裏面史として採り上げました。



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我王墓

2009 - 08/23 [Sun] - 21:31

1251030701-我王墓.jpg
岡山県中部、備前と美作の国境に久米郡美咲町があります。山が連なりその間を川が流れる山あいの土地です。西側を流れる吉井川と東側の吉野川が出会うところが「飯岡」です。やや開けた水田地帯の真ん中に一本の木と、真新しい石碑群があります。これが我王墓といい、美作後南朝皇統の最後の親王である良懐親王の墓とされています。

時は江戸時代。美作植月に御所を構えて後醍醐帝以来の血脈を営々と伝えてきた美作後南朝皇統も、徳川幕府の隠蔽政策によりようやく民草に埋没しようとしていました。当時の当主は良懐親王といいました。身体がひときわ立派で膂力に優れ、王に相応しい方だったそうです。そのため、再び世に出る機会をうかがっていました。5代将軍徳川綱吉の頃です。

ある日のこと、親王は岡山西大寺の祭礼見物を思い立ち、従者と船に乗って吉野川を下っていきました。そして備前鴻の瀬にさしかかったところ、何の拍子か船が転覆してしまいます。親王は川に投げ出されました。一説に、従者によって刺されたともあります。すぐに助け出され植月に戻ろうとしましたが傷は重く、この飯岡まで来てついに力尽きてしまいます。親王は、運び込まれた民家で「我は王なり」と言って絶命したそうです。地元の民はこれを哀れんで遺骸を葬り、"我王墓"として拝んできたと伝わります。平成の世になって研究グループが墓所を整備し、美作後南朝の伝承や系図を刻んだ石碑を建てています。

伝承の真偽としては、美作後南朝伝承の根拠がやや希薄なために、あまり真実性はないように感じられます。ただ、飯岡という土地の周辺を見ると、この墓が南朝との関係があるのかもしれないとも思えます。

すなはち、飯岡の北西には柵原があります。ここは平成3年まで鉱山がありました。鉱床の発見は江戸慶長年間にまで遡る古い鉱山です。南朝の資金源が鉱物資源であり、鉱山技術を持った民とも繋がりを持っていたということはよく指摘されています。南北朝期には未発見だったとはいえ、山深いこの地域に、南朝の息のかかったそのような民がいたであろうことは大いに考えられることです。その民の代表のような立場にいた人物が、徳川幕府の鉱山支配に抵抗し、暗殺されたか何かでこの地に葬られたということはなかったのでしょうか。その人物と後南朝伝説が結びついたように思われてなりません。



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