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南帝ラヂヲ

南朝・後南朝に関連する史蹟の現状を保存していきます。

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近衛殿

2009 - 08/07 [Fri] - 23:38

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岡山県津山市から北西に車で30分ほど走ると、鏡野町中谷に着きます。山間部に集落が点在している地域ですが、やや開けた箇所があり、「近衛殿」(このえでん)という、山村には不釣り合いな京風な地名がついています(写真左)。県道の傍らに小さな門があり(写真中)、その向こうに墓があります。墓碑銘に「関白左大臣近衛経忠公墓」と刻まれています(写真右)。近衛殿という地名は、近衛経忠が同地で死んだことに由来しています。

地元の伝に曰く、近衛経忠はこの地に落ち延びてきて南朝勢力の拡大を画していました。しかし北朝勢力に見つかって攻撃され進退窮まったので、やむなく大きな岩に座して腹を切って死んでしまいました。地元の民はこれを憐れみ、丁重に葬って供養してきたということです。

近衛経忠と言えば、後醍醐天皇に重用されて関白左大臣に任じられていました。大覚寺統・持明院統の双方に顔が利いていたようで、足利尊氏が持明院統の帝を擁立したときにも再度、関白に任じられています。

もっとも、当人は後醍醐天皇に恩義を感じていたのか、京を出奔して吉野に参じ、以降南朝の関白として重きをなしています。

ところで当時の南朝の戦略は北畠親房が担っていました。村上源氏としての極官を越える地位につき、辣腕をふるっていました。恐らく近衛経忠は面白くなかったことでしょう。その小さな対立が後に南朝内に深刻な裂け目となってあらわれます。いはゆる「藤氏一揆」がそれです。

親房は、義良親王を奉じて奥州に下り、該地の豪族を結集して鎌倉や京に攻め上るという策を実行に移します。そして伊勢大湊より出航しますが遠州灘沖で嵐に見舞われ、船団は散り散りになってしまいます。親房自身は常陸に流れ着き、やむなくその地で南朝勢力の拡大を期することになります。

関東の地には平将門討伐以来、藤原秀郷の子孫たちが蟠踞していました。小山・結城・小田・下妻・関といったところがそれです。藤原氏には氏長者という一門最高位の人物がおり、一族はその命令は絶対聞かなければならないことになっていました。そして氏長者は関白が兼ねていました。経忠はこれを利用したのです。

すなはち、経忠は親房の地位を否定して関東の藤原一族を自分の元に結集し、興良親王を奉じて第三勢力を築き上げようとしたのです。実際に使僧が経忠のもとより関東にやって来ていました。

しかし結局、この藤氏一揆は失敗に終わります。その後の経忠の消息はわかりません。南朝に戻り賀名生で死んだというのが支配的になっています。

その経忠がなぜに岡山の山奥で死んだことになっているのでしょうか。

美作には菅家七党という菅原道真の子孫の一族が力を持っていました。彼らの大部分が南朝に味方しました。そのためか、美作は実に南朝色が濃く感じられます。美作後南朝伝説然りです。あるいは当時備前で法華宗が勢力を持っていましたが、根付かせたのが大覚大僧正という僧でした。この僧が経忠の子息という説もありました。

近衛経忠ほどの大物でないにしても、南朝方の藤原一族公卿がこの地に隠れ住んだということはありそうです。



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平泉寺白山神社

2009 - 06/24 [Wed] - 02:37

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福井市より国道416号線を東へ1時間ほど走ると、勝山市に着きます。越前大仏の大伽藍や勝山城の復元天守閣のある辺りが平泉寺町で、案内看板に従って進むと、趣のある社前に出ます(写真左)。これが平泉寺白山神社、全国白山神社の総元締めであり、また多数の僧兵を擁して越前の趨勢に大きな影響力を及ぼしてきた平泉寺の跡地でもあります。

境内は杉木立が生い茂り、また拝殿・本殿のあたりは一面苔に覆われていて、夏だというのにとても涼しげな気配です(写真中)。日本の道百景に選ばれただけのことはあり、これだけでも一見の価値があります。

参道はさらに奥へと延びており、そちらへ歩を進めます。石段が施された真っ直ぐな道を登ると、突き当たりに御堂が見えてきます。その御堂のやや手前左手に、高さ1.5mほどの石塔が建っています(写真右)。これこそが平泉寺の楠木正成供養塔です。

平泉寺は鎌倉幕府が滅ぶ際には付近の北条一族を攻撃したりもしましたが、特に南朝方というわけではありませんでした。むしろ新田義貞に背いて足利方の斯波高経に味方しています。楠木正成の供養塔を建てる道理がありません。

当時、平泉寺には恵秀と名乗る僧がいました。ある日、恵秀が勤行しておりますと、眼前に甲冑武者が立ちました。そして武者は恵秀に、自分は正成で討ち死にしたことを告げます。果たしてその日は湊川の合戦が行われた日でした。恵秀はその後すぐに正成の供養塔を建てたということです。以来この石塔は大切に供養され続けてきました。永享6年作の平泉寺縁起にも書かれています。

ところで正成はなぜ一介の僧である恵秀の前に現れたのでしょうか。その答えは恵秀の正体にあるようです。

この恵秀、実は楠木一族でありました。それも正成の弟(あるいは甥)という非常に近しい関係でした。もっともこれは伝承ですので、本当にそのような関係にあったかは定かでありません。しかし周辺部の伝承から楠木一族がいたことは間違いなさそうです。

恵秀が楠木一族としても、ではなぜ平泉寺にいたかという疑問がまだ残ります。越前と河内の関係が見えにくいからです。

そこで、恵秀は河内楠木氏出身ではなくて、他の地域の同族出身ではないかとの考えが起こるわけです。水原一氏は、平家物語延慶本に登場する橘次郎大夫則次に注目しました。楠と称していたからです。則次は加賀に住んでいたことから、加賀橘氏と河内楠木氏の同族関係をほのめかしています。

興味深い見解ではありますが、南北朝期における加賀橘氏の消息が不明ですので、まだまだ調査が必要でしょう。



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昌寿院

2009 - 06/08 [Mon] - 15:18

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嵯峨嵐山や保津峡を抜けると、丹波の国です。そして山陰道から京都に入るときに要衝となるのが亀岡です。戦国時代には丹波を平定した明智光秀が亀山城を築いていました。重要な戦略拠点であったことはどの時代でも同じでした。なかでも源氏は早くから領地としていたようで、頼政塚や篠村八幡宮などがあります。

ちなみに篠村八幡宮は、鎌倉幕府より船上山の後醍醐天皇討伐を命ぜられた足利高氏が、北条氏に反旗を翻すことを明らかにした地でもあります。ここより軍を反転させ、一気に京の六波羅探題を陥として幕府は滅亡へと向かうことになります。

このように亀岡は足利氏の土地との印象が強かったのですが、篠村八幡宮の目と鼻の先に楠木氏に関係する遺蹟がありました。それが昌寿院です(写真左)。

亀岡駅より東南の方向に徒歩で15分ほど行くと、年谷川のほとりに昌寿院があります。普通の寺のようですが、山門には菊水紋が刻まれてあります(写真中)。境内には五輪塔があり、"関家"と刻まれてあります(写真右)。この関家の先祖が関正世といい、楠木正時の子と云われています。

伝に曰く、南北朝の抗争が激化したために、楠木正時は妻を実家の関氏に帰しました。妻は懐胎しており、この地で男子を産みます。これが関正世です。関氏は以降もこの地に居住していました。なのでこの地は"楠屋敷"と呼ばれていました。

しかし戦国時代末期、明智光秀が丹波平定にやって来ます。関氏は正則の代でしたが戦火に巻き込まれて楠屋敷も焼亡してしまいました。その後亀山城築城に際して城下町の整理が行われ、この地には昌寿院が建つことになったのです。

楠木正時に関する伝承は少なく、その意味でここは大変貴重な場所と言えましょう。



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赤松塚

2009 - 05/13 [Wed] - 02:37

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国道369号線に上多気という交差点があります。北へ曲がればすぐに北畠神社があり、その一帯が伊勢国司北畠氏の本拠・多気御所です。今回は南の方に進路をとります。1~1.5車線ほどの細い道をひたすら進みます。沿道には、北畠氏に関係する地蔵さんや松月院址などが点在します。5分ほど車で走ると小さな看板が立っています。そこより看板に従って徒歩すぐ、民家の裏手に五輪塔が祀られています(写真右)。これが赤松塚です。

五輪塔の傍には卒塔婆が立てられていて、被葬者の名を教えてくれます。すなはち、この塚には赤松教康が葬られています。赤松といえば播磨です。その赤松一族がなぜに伊勢で死んだのでしょうか…。

それは教康の父に由来します。彼の父は赤松満祐。室町幕府6代将軍・足利義教を自邸にて殺害するという嘉吉の乱を起こした男なのでした。

満祐は義教を殺した後、本拠の播磨に帰って追討軍を迎え撃ちました。しかし特に山名持豊の働きもあって敗れ、城山城で自害します。このとき教康は脱出しました。そして妻の実家であり同じ村上源氏でもある伊勢北畠氏を頼っていったのです。

北畠氏の当代は教具でした。父は断頭将軍の異名を持つ満雅。小倉宮を擁して幕府に挑んだ英傑でした。しかし岩田河畔にて討ち死にしてしまい、伊勢国司家は滅亡の危機に瀕します。その国司家を存続させたのが足利義教でした。そのため教具は義教に多大な恩義を感じていたのでしょう。また、その存続に力を尽くしたのが赤松満祐でした。教具は二つの恩義に板挟みとなり苦悩します。

しかし結局、教具は幕府を取りました。教康に対して匿えない旨を伝えます。教康は絶望し、ついにこの伊勢の奥地で自刃しました。享年、19歳。

かくして赤松家はいったん滅亡します。その後20年を経て再興されますが、その生け贄にされたのが後南朝でした。その意味でここは後南朝史蹟と言えましょう。


福西灌頂寺

2009 - 04/25 [Sat] - 12:35

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柿本人麻呂の歌や又兵衛桜で有名な大宇陀の東部に、福西という集落があります。とりたてて目を惹くような村ではなく、どこにでもあるようなところです。健民グラウンドの前で左折し、集落内へ入ります。車で5分ほど進むと今度は右折、少し行くと雑木の生い茂る小山があります。その前に新しい案内看板が設置されています。ここが灌頂寺です。

南朝編年記略、正平9(1354)年9月条に「十五日入道准三宮親房薨於和州宇陀郡福西荘灌頂寺阿弥陀院六十二歳当時賢才上下惜悼之」とあります。この福西荘灌頂寺阿弥陀院が看板の立っているあたり、すなはちここは北畠親房が亡くなった場所なのです。

北畠親房は公式には賀名生華蔵院で死んだとされ、その址に墓も建っています。しかしこの宇陀の地も相応に有力なのです。

宇陀郡は伊勢と境を接し、伊勢国司たる北畠氏にとっては、領国の安定や京を睨む意味でぜひとも押さえておきたい戦略的要衝でした。そのため早くから勢力を扶植していたようで、関係する遺跡も集まっています。北西の地には親房の娘たる新陽明門院の笠間山陵があり、また南東の宇太水分神社の神宮寺には三男顕能が梵鐘を寄進した事実があります。北東の室生寺には親房の供養塔もあります。

南朝編年記略は江戸時代の編纂物ですので、根拠史料とすることはできません。しかし何を参照したかによっては、この福西の地が没地となる可能性も高くなります。宇陀郡はそれほどに北畠色が濃く残る土地でした。

 

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