南帝ラヂヲ

南朝・後南朝に関連する史蹟の現状を保存していきます。

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竹原八郎館

2008 - 05/28 [Wed] - 01:42

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和歌山県・三重県・奈良県が県境を接する奥吉野に、瀞峡(どろきょう)という名勝があります。そこより北山川に沿って国道169号線を東に走りますと、七色ダムの手前にこじんまりとした集落があります。そこが和歌山県東牟婁郡北山村竹原、護良親王の熊野行を助け申し上げた竹原八郎の根拠地であった所です。

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大河内行宮

2008 - 02/08 [Fri] - 14:38

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三重県熊野市紀和町大河内に所在します。

世界遺産に登録された熊野三山ですが、熊野本宮大社より熊野速玉神社へ行くには、現代では熊野川沿いに国道168号線を車で走ることになります。途中に熊野川町の役場があり、この前に熊野川を渡る橋が架かっています。この橋を渡れば町名が変わって紀和町になります。

人家も稀な山なかの県道を、まずは"布引の滝"を目指して30分ほど進みます。途中で滝への道との分岐に出ますが、県道に従ってそのまま行くと、大河内の集落に入ります。道端に腰あたりの高さの石碑がありますので、そこを曲がって坂道を登ると、公民館らしき建物の前に出ます。そのそばにかなり大きな石碑があります。これが「大河内行宮跡」です。

 

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楠木正勝の墓

2007 - 11/06 [Tue] - 14:20

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十津川村武蔵にある"公式の"お墓です。

南北朝合一直前、千早城失陥により正勝は吉野へと逃れます。のち、大内義弘が足利幕府に対して叛旗を翻した「応永の乱」に大内側に立って参戦、しかし義弘の討死により再び吉野へと去ります。その後の事蹟が殆ど不明なのですが、十津川に来て再挙を図るも病を得てこの地にて歿した、とされています。

しかし後半生が謎に包まれているため、様々な伝説が生まれ、従って正勝の墓も多々存在することになります。中には、伝承に基づいて墓を造りわざわざ十津川に来て分骨して貰った例もあります。

 

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光福寺

2007 - 10/16 [Tue] - 15:53

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野長瀬一族の墓で触れた尊雅王が薨去した地なのが、ここ熊野市飛鳥町神山の光福寺です。境内には尊雅王の墓と伝わる石龕や火葬地があります。

ところでこの寺は元は別の寺名でしたが、尊雅王の諡が興福院だったために、光福寺となったということでした。ではその前身の寺を開いたのは誰かと言いますと、平維盛なのです。つまりこの地は平家落ち武者伝説と後南朝伝説が交叉する、伝説の解明には非常に興味深い所と言えるでしょう。

 

野長瀬一族の墓

2007 - 10/09 [Tue] - 14:03

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熊野古道・中辺路ルートは、海岸沿いの田辺と内陸の熊野本宮大社とを結ぶ、熊野古道でも人気のあるコースです。そして熊野本宮大社から北に上がると十津川に出ます。あるいは修験の道を経れば、吉野に達します。つまり後南朝にとっては、その本拠地と、西に向かって開く海の玄関とを結ぶ最重要のルートの一つであったことでしょう。

この野長瀬一族の墓のある近露は、そうした中辺路ルートの中間辺りに位置します。附近には熊野古道のシンボルともなっている「牛馬童子像」や様々な王子が、当時の姿を留めています。

 

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