南帝ラヂヲ

南朝・後南朝に関連する史蹟の現状を保存していきます。

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三之公行宮

2010 - 04/29 [Thu] - 09:57




国道169号線は、奈良市より奥吉野東部を縦断して新宮市に至る幹線道路です。沿道には、例えば御首載石や金剛寺など、往時を伝える史蹟が点在しています。その金剛寺のある神之谷(国道では北和田)から2kmほど南下すると、大迫ダムが姿を現します。数々の史蹟を底に沈めた憎っくいダム(笑)ですが、ここを左折しダムの上を渡って県道224号線に入ります。入之波温泉を抜けダム湖に沿って走ること20分ほどで林道との分岐に着きます。この辺りが「御前申す」で、後南朝の番所があったところです。

左折して林道に入ります。穴ぼこだらけの荒れた道を走ること10分、鉄橋が姿を現します。三之公出合です。鉄橋を渡り鋭角に右折します。舗装もよくなった道を10分ほど走ると、数軒の民家のある小さな集落に着きます。もっとも、人が住んでいる気配はありません。川向こうにやや開けた平坦な土地があり、そちらにも民家が建っています(写真左)。これがかつて尊義王の御所のあった「八幡平」です。かつては道が八幡平の方を通っていたようですが、現代では橋がありません。史蹟に行くには川を歩いて渡らねばならず、次の宿題としておきます。

少し行くとバイオなトイレがあり、さらに行くとすぐに林道の終点に着きます。左手に階段がついています。これがかくし平登山道の入口です(写真中)。身支度を終え山之神に挨拶をしていよいよかくし平に向けて一歩を踏み出します。時刻は、ちょうど13:00でした。

始めの階段を登りきると、アップダウンの少ない山道となります。ただ道幅は狭く、人一人が通れるくらいです。時折木製の桟橋がかかっています。落ち葉が道を埋めていて、足を滑らせたら谷底へ直行というような気の抜けない箇所もたくさんあります。30分ほどで明神滝へ下る道との分岐点に着きます。木の間隠れに見える明神滝は水量も多く雄大な姿でしたが、間近まで寄るには急な下りをおりねばならず(裏を返せば元の道に戻るには急な登りとなる)、帰りに寄ることとして、先に進みます。

ここから勾配がきつくなり、登り坂が長く続いていきます。太り気味(汗)の管理人にはかなり辛く、小休止の回数が増えます。ただ、滝がちらちら見えたり、山腹いたるところに露出する巨岩に感心したり、涼風が吹き渡る場所があったりで、休むのも楽しかったりします。

明神滝出合から小1時間ほど歩きます。右下に二筋の滝が見えるところに来ると、疲れた身体に追い討ちをかけるような今まで以上に急な登りがあります。ひいひい言いながら這い登り、最後の木の階段を登ると、その先はなだらかに下って、小さな沢の河岸に続いています。苔蒸した木のベンチがあり、その側に「かくし平入口」という道標が立っています。ようやく目指す「かくし平」に着きました!

途端に元気が戻ってきます(笑)。道標の指す方向が曖昧なので少し迷いますが、沢を渡ると登り道が続いています。それを登りきると、山の中では意外なほどの広さの平坦な土地になっています。その真ん中に、腰までほどの大きさの石碑が建っています(写真右)。「三之公行宮址」と彫られています。まさにここが三之公行宮です。到着時刻は14:40でした。

優に20畳はある広さです。金剛寺や瀧川寺の本堂ほどではありませんが、一般民家よりははるかに大きい建物なら建てられそうです。奥は片側一車線の道路ほどの広さの土地が100mくらい続いており、警護の武者や側近公卿の詰所があったことが想像されます。あまりに山奥深いので単に伝承が残っているだけかと思っていたのですが、予想以上に広い実際の土地の様子に、御所があったと言われても信じるに足る場所でした。

ちなみに、明治末期にこの地を造林するために掘り返しを行ったところ、朱塗りの椀片や薙刀片や小刀が出土したと言います。時代の分析がなされていないのが残念ですが、御所があったことを物語ってくれていると感じます。



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藤沢遊行寺

2010 - 04/08 [Thu] - 23:09



神奈川県藤沢市は、鎌倉市のすぐ西にある人口40万人を超える大都市です。その発展の源となったのが、この清浄光寺(通称遊行寺)です。開創は正中2(1325)年に遡ります。一遍上人より数えて4代目の呑海上人がこの地に逗留した際に、土地の豪族に屋敷を提供されたのが始まりです。以来、時宗の総本山として崇敬を集め、藤沢もその門前町として発展してきました。

さて、南北朝当時の時宗はかなり重要な役割を果たしていました。太平記にも度々登場する、陣中僧です。これは戦場において戦死者を弔う僧のことですが、もちろんその働きだけではなかったでしょう。時宗は別名を踊り念仏と言い、漂泊の宗教でした。当然に日本各地の情勢に詳しくなります。各武将が自陣に時宗僧を置きたがったのも、まさにその情報収集能力の高さ故でした。これは南朝の宗教戦略において最も顕著に現れます。

後醍醐天皇は、曹洞宗と修験道の保護に意を用いました。後村上天皇も、普化宗(虚無僧)を味方につけていました。これらはすべて漂泊を基調としています。時宗を取りこまないわけがありません。

そこで重要な働きをしたのが尊観法親王でした。親王は亀山天皇の皇孫で、大覚寺統の誼で南朝に参じ、一説に後村上天皇の猶子となっています。正平15(1360)年にこの遊行寺で出家し、以降、日本各地の漂泊を重ねますが、元中4(1387)年に12世遊行上人に就きました。この時期の遊行寺はかなり南朝色が濃いように感じられます。後醍醐天皇の肖像画が残っていることや、時衆過去帳に南帝や南朝忠臣の名が記されていることがその証しでしょう。瀧川政次郎博士も遊行寺に注目していました。南朝の敗残者が多く逃げ込み、これを保護したこともあったことでしょう。このような寺ですので、肖像画や過去帳の他にも当時の遺物が残っています。

○敵味方供養碑(怨親平等碑、写真中)
東門そばにあります。元は、上杉禅秀の乱にて重傷を負い遊行寺にて自害した扇谷上杉氏定の墓でしたが、乱終息後の応永25(1418)年に、乱の敵味方を共に葬って供養の石塔を建てたものです。上杉禅秀父子も埋葬されているようです。

○宇賀神(写真右)
本堂裏の歴代上人墓の左手にあります。新田一族・得川有親の守り本尊でした。有親は12世尊観法親王の弟子となり名を徳阿弥と改めました。そして応永3(1396)年にこの地に勧請したということです。この徳阿弥の子孫が徳川家康ということで、遊行寺は江戸幕府の庇護を受けました。

この他、長生院に小栗判官の墓がありますが、これについては違う機会に触れたいと思います。

 

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万里小路藤房伝説2

2010 - 03/25 [Thu] - 22:00



妙心寺二世・授翁宗弼は、河内に少なくとも三つの観音寺を開いています。


一つは、南河内にある楠妃庵観音寺です。楠木正成が湊川で討死したのち、その妻久子は敗鏡尼と号しての地に隠棲しました。そして久子が没したのち、正儀が不二房を招いて庵の址に観音寺を建立したと伝わります。境内には久子の墓があります(写真左)。

二つ目は中河内、東大阪市にあります。JR徳庵駅の近くに「稲田の観音さん」と呼ばれる観音禅寺がそれです。江戸時代に復興された寺院ですが、元は授翁宗弼が大内義弘の後援を得て開いたものでした(写真中)。

南北朝当時の徳庵はおそらく湿地帯の中のやや乾いた土地だったのでしょう。徳庵城という城があり楠木正成配下の武将が在城していたようです。また徳庵納豆が名産で後村上天皇に献上されたとも伝わります。このように南朝色が濃い河内の真ん中に寺院を造るのですから、授翁と楠木氏の深い関係がうかがわれるわけです。

そして三つ目は北河内にあります。寝屋川市の西部の淀川沿い一帯は「仁和寺(にわじ)」といい、京都仁和寺の造営費用に充てられた荘園でした。その後、仁和寺荘は京都妙心寺の管理するところとなり、妙心寺二世の授翁宗弼も関わりを持つことになります。当時この一帯は、守口市佐太の来迎寺が後村上天皇の勅願寺となったことからもわかるように、南朝、とりわけ楠木氏の勢力下にありました。そして楠木正儀は、亡父33回忌追善として、授翁を迎えてこの地に観音寺を建立しました(写真右)。

先に見たように、授翁は大内義弘とも親しく、それ故に南北合体交渉にも関わっていたようです。後村上天皇の御代において、南朝は楠木正儀、北朝は細川頼之が代表となって合体交渉が行われたことがありました。その場所がこの観音寺だったという伝承があります。淀川を通じて京都に近く、また楠木正儀の勢力圏内にあるこの寺は立地的に申し分なく、二人が語り合ったという話も真実味があります。

河内や楠木氏とこれだけ深い縁を持った授翁宗弼だからこそ、万里小路藤房であるという説がでてきたのでしょう。事実のほどはわかりませんが、個人的には藤房であって欲しいと思います。

 

万里小路藤房伝説1

2010 - 01/17 [Sun] - 00:04

1263654244-松の露下址碑.jpg1263654243-万里小路藤房髪塔1.jpg1263654242-妙感寺3.jpg

南朝や楠木氏の伝説を語る上で外せないのが「万里小路藤房」の伝説です。彼は後醍醐天皇の側近でした。元弘の変でも天皇に付き従い、楠木正成参陣の勅使として河内に赴いたりもしています。笠置陥落の際にも天皇と行動を共にし、山城有王山下にて捕らわれました。現在その場所には、藤房の返歌に因んだ「松の下露碑」が建っています(写真左)。これにより藤房は常陸藤澤に配流され、倒幕の表舞台よりしばし姿を消します。

藤房が再びその名を顕すのは、倒幕が成功して京に戻ってからです。中納言に任じられ、さらに諸国の武士の所領関係を定める恩賞方の頭人や雑訴決断所の寄人を務めています。雑訴決断所の同僚に楠木正成がいました。数少ない武士の心情をくみ取れる公家として、公平無私に判断をくだしていたことでしょう。

しかし建武の新政は、後醍醐天皇とその取り巻きによって無残なものへと変わっていきました。そこで藤房は、後醍醐天皇に政治を正すよう直諫をします。太平記に名高い「竜馬進奏」です。しかし天皇は以前と違い臣下の諫止を受け入れることはありませんでした。藤房は新政や天皇に絶望します。そうして彼は出家遁世の道を選びました。太平記には、石清水行幸の供奉の直後に、京都岩倉にて不二房について出家、そのままいずこかへと姿を消してしまった、とあります。現在岩倉の地には藤房の髪塔が残っています(写真中)。

その後の藤房の行方は不明です。ここに伝説が生まれます。まず有力なのは、京都妙心寺の関山慧玄について法を嗣ぎ、二世・授翁宗弼となったというものです。楠木正儀により河内に招かれ、その母・久子の庵に観音寺を創建したと伝わります。晩年は自らが開いた近江妙感寺に坐して遷化、同寺に葬られました。

甲賀の地・大納言山の麓にちいさな寺がひっそりと建っています。裏手には滝が流れます。その上方には鎌倉時代に作られた地蔵の磨崖仏があります。古くから修行の場だったのでしょうか。まさに世捨て人が晩年を過ごすにふさわしい趣きです。本堂の左手に墓塔があります(写真右)。

いま一つの伝説は、吉野拾遺から派生するものです。越前鷹巣山から越後正続寺に参禅し、無等良雄(良覚)と号して出羽補陀寺に赴き、さらに陸奥正法寺に行ったとされています。秋田市内にある補陀寺にはその墓があるそうです。この他、三河・筑後・常陸などに墓があります。

藤房が興味深いのは、楠木氏との関係です。南江久子が嫁する以前の正成の妻が藤房の娘で、正行を生んだという系図があります。また、藤房の没地の側には必ずといってよいほど楠木氏の伝承が残っていました。出羽には楠木正家の子孫と称する打越氏がおり、正家の墓もあります。三河や常陸には楠木正勝の伝説、筑後には楠木正行の娘から出た楠木氏がいました。後世の牽強附会もあるのでしょうが、この伝説の背後に何があるのかを探していきたい伝説です。

 
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玉琳塚

2009 - 11/25 [Wed] - 04:26

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楠木氏には真偽不明の系図が数多くありますが、その中の一つに「美作玉林院系図」というのがあります。岡山県津山に玉林院なる寺院があり、そこに伝わる系図のことです。

系図に曰く、楠木正成の弟・正遠が和泉和田家に入ったのが始まりです。以降、高家ー五郎ー正武と続きますが、正武には種子丸という次男がいました。正武はこの子を出家させるとして、家来の中島左近・大井田源次郎に託して高野山に遣りました。種子丸は姓名を隠して名乗りませんでしたので、寺僧が中島の中と大井田の井をとって「中井左源太」と名付けたそうです。その後左源太は僧となりたくなかったのか高野山を下山し、河内の野田宗湛の婿養子となり正種と名乗ります。しかし応永年間に難に遭って落命してしまいました。

正種には二人の子があり、その弟の方の家系が続いていきます。彼は正持と名乗り、近江甲賀郡に移住します。その子が元政で、文明年間に矢に当たって死んでいます。この文明年間は応仁の乱のまっただ中、元政も京に出陣していたのでしょうか。

文明年間からおよそ100年後、関ヶ原の合戦も終わって、戦国の世もようやく静かになってきた頃、美作の中心地である津山に、森忠政が入封してきました。忠政は、室町時代の山名氏の城を、より大規模な城に修築し始めました。しかし何の障りがあったのか、さまざまな怪異が起こります。ために工事は進まず、忠政は困ってしまいました。

そこに一人の修験者が現れます。彼はお告げをもってその怪異を鎮めていきました。おかげで工事ははかどったそうです。このため、その修験者は津山に住むことになりました。これが先の元政の後裔だったのです。慶長17年(1612)まで生き、遺言で現在の川崎町のあたりに「河内玉琳」の号で葬られました。

その河内玉琳の墓が現代でも残っていると聞き、現地に行ってみました。

JR東津山駅より北西に10分歩いたところに、バス停「玉琳」があります(写真)。すぐ傍に小高い丘があり、どうやら墓地になっているようです。玉琳公会堂から細い階段がついているので登ります。登りきったところにお堂と五輪塔(写真)や石碑が祀られてあります。石碑には「玉林院法印智観三百年紀念碑」(写真)とあります。案内看板(写真)には文化8年に200年忌とありますから、河内玉琳は法号・智観といい、この石碑は1911年に建てられたようです。地元ではかなり大切にされているようで、だんじりでは曳き手が全員山伏の姿だそうです。また津山築城400年祭でも河内玉琳行列が催されたりもしました。このように現地の人に慕われている南朝関係史蹟を見るのが、管理人はとても嬉しいのです。



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