南帝ラヂヲ

南朝・後南朝に関連する史蹟の現状を保存していきます。

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小倉御前の墓

2009 - 04/01 [Wed] - 23:33

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赤穂市坂越は瀬戸内海に面して海上交通の便が良かったため、赤穂城下よりも早くから開けていました。現在でも江戸時代の町並みを色濃く残し、"坂越町並み保存館"を中心に保存に努めています。

その保存館の裏手に一群の五輪塔が残されています(写真左)。傍に説明看板が設置されており、「小倉御前の墓」と記されています。小倉御前とはすなはち小倉宮、つまりこの墓は後南朝皇子の墓なのです。この墓にはどのような伝承が語り継がれているのでしょうか?

曰く、後亀山天皇の皇子であった小倉御前(小倉宮)は京都嵯峨野に住まいされていましたが、足利幕府との抗争のなか危険を感じ、この坂越に隠れ住みます。しかし幕府の勢威ますます盛んとなり、ついに探索の手が坂越にも及んできたために望みが絶たれたことを悟って坂越浦の御前岩にて海中に身を投じてしまいました。民は悲運の皇子に同情して墓を作って供養し、また船祭りに際しては御前岩にもお供えをしてきたそうです。

後南朝皇子がいたかどうかの実否は同時代史料で裏付けられない以上判りません。しかしこの坂越という土地に南朝伝説が成立する素地がありました。

この墓の近くに大避神社があります。祭神は秦河勝です。往時、秦河勝が坂越に流れ着いて死んだために、沖合の生島にその遺骸を葬り神として祀ったということです。秦河勝は渡来人の総元締めのような人物で、能楽の生みの親とも言われます。そして楠木氏は一説、渡来人の血を引いて秦河勝の一族とも言われ、南朝伝承との親和性は非常に高いものがあります。

さらに大避神社の鎮座する山を登ると5分ほどで五輪塔に行き着きます(写真右)。これが児島高徳の墓とされています。あるいはそこより40分ほど歩くと、和田範長の墓に着きます。児島高徳・和田範長の詳しい説明は省きますが、両者は親類で、ともに後醍醐天皇に味方した勤皇の一族です。恐らく和田範長が当地で敗亡し、そこから児島高徳や小倉御前の伝承が派生したものと考えます。実際、児島高徳と後南朝皇子がセットになった伝承は他でも見られます。修験道の影響があるのかも知れません。

 

楠公神社

2009 - 03/18 [Wed] - 14:30

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名鉄一宮より尾西線に乗り終点玉ノ井駅で降りて南東方向1kmほど行くと、静かな町中に小さな神社が鎮座坐します。周囲一帯を三ツ法寺といい、この神社は旧村社で三法神社と申し上げます。外見はありふれた神社ですが、本殿左手に摂社が祀られています。その社の前の立て札には「楠公神社」と記されています。

楠公神社は、かつての忠君愛国思想の称揚から各地に作られましたが、その主神はだいたいは楠木正成でした。しかしこの地の楠公神社は違います。何とも珍しいことに、「楠木正儀」を祀っているのです。

なぜ正儀なのでしょう?南朝で立場をなくしたが故とはいえ、北朝に従った経歴を持つ正儀は不忠の子とされてきました。忠君愛国思想からみれば決して祭神とはなり得ません。ですのでもっと他の理由がありそうです。

境内には由緒を書いたものがありませんが、伝え聞くところによると、正儀はこの地に移り住んで死んだ、となっているようです。あるいは正儀の子の正勝が同地で死んだとか、伝承もかなり錯綜してはっきりしません。つまりは墓があったのですが長い年月の間に失われ、神社の祭神に転化したのではないでしょうか。

正儀は没年没地がはっきりしませんので、この地で死んだという話もあり得ないわけではないです。しかしなぜこの地なのかとの疑問が残ります。南朝色が格別強い土地というわけでもありません。

資料が余りにも少ないために、考察の材料だけ並べておきます。この地の近くに黒田という場所があります。山内一豊の生誕地として近年有名になりましたが、支配者が目まぐるしく変わっています。そのなかに「和田河内守」がいました。来歴は不明ですが何とも楠木一族らしい名乗りです。

あるいは黒田は鎌倉街道の要衝でしたので合戦がしばしば起こっています。南北朝期では北畠顕家の上洛戦の折に濃尾の足利方との間で合戦が発生しています。その際に従軍していた楠木一族が土着したとも考えられます。

いずれにせよ、かなり謎の多い場所です。

 

新田義貞伝説

2008 - 12/17 [Wed] - 03:05

しっぺ由定橋
櫨原義徳トンネル
岐阜県大垣市から国道417号線が北へ伸びています。終点は福井県南越前町となっているのですが、国道自体は全線開通しておらず途中で林道に変わるという、いはゆる"酷道"になっています。しかしこの道は、南北朝当時は越前と美濃を結ぶ重要な道でありました。

ところでこの道の終点である南越前町には、越前南朝方の有力豪族である「瓜生氏」の本拠地がありました。その中心が杣山城です。湊川で敗れたあと、宮方の敗北は決定的となりましたが、新田義貞らは越前に走って勢力の回復を図りました。そこで頼りにしたのが瓜生氏でした。

しかし越前には足利一門の斯波高経が派遣され、新田義貞らと死闘を繰り広げます。瓜生氏の力もあって義貞らも健闘しましたが、結局力及ばず敗退します。史実では義貞は灯明寺畷にて討ち死にし、舎弟・脇屋義助ら残兵は美濃方面に逃走し、吉野へと逃れ去ったことになっています。

ところが伝承によると、義貞は灯明寺畷で死んだことにはなっておらず、冠山峠を経て美濃へと逃れています。そうしてこの櫨原(はぜはら)の地に潜みました。捲土重来を企図していましたが軍資金に目がくらんだ村人たちによって襲撃され、同地の白山神社の杉の木に登って金をばら撒いた後、短刀をくわえて飛び降りて自決してしまいます。なおばら撒かれた金はすべて金の蚕に変じて北の「しっぺ谷」に逃げていったそうです。

その後、しっぺ谷から突風が吹くたび、村は火事に見舞われます。これが7度に及ぶにいたり、やはり新田義貞の祟りであろうということになり、村人たちは墓を建立してその霊を慰めることにしました。しかし新田義貞ということが幕府に知れたら困るということで、墓碑銘には「仁田四郎由定」と刻んだのです。以来火事はやんだということです。

平成の世になり、この地は徳山ダムの底に沈んでしまいました。現在では櫨原義徳トンネルを抜けた先にある「シッペ由定橋」にのみ、その名を留めるに過ぎません。ただひょっとしたら渇水が起こって湖底が現れたら、仁田四郎由定の墓も見えることになるかもしれません。

もちろん新田義貞の墓というのは伝説の域を出ないでしょう。しかしこの櫨原から南へ6キロほど行ったところに、根尾方面への分岐点があります。この根尾には南朝に味方した豪族がおり、越前を逃れた脇屋義助が根尾城に入って美濃守護の土岐氏と戦火を交えたことは、大友文書等によって史実と認定されています。つまりは新田一族の誰かがこの櫨原で亡くなり、それが義貞に昇華したものと思われます。

 

小島頓宮

2008 - 08/17 [Sun] - 03:42

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頓宮とは仮の宮との意味合いで、いはゆる行宮とか行在所です。南朝の勢力は次第に衰退していったために、南朝史蹟としてよく見られるものですが、この小島頓宮に関しては北朝・後光厳帝のものです。

すなはち、観応の擾乱の挙句、足利直義は尊氏に殺されますが、全国各地に直義派は健在でした。中でも山陰に蟠居した山名氏は強大な勢力を維持していました。この山名氏を南朝が調略して自陣にひきこんだのです。

そうして正平8(1353)年、楠木正儀らと山名氏が合して京の足利義アキラを攻撃し、その勢いに義アキラは抗しえず、後光厳を連れて東へ逃れます。今回は近江も危ういということで、土岐氏の領地である美濃まで落ちていきました。かくして美濃まで逃れてきた後光厳が落ち着いたのが、この小島頓宮というわけです。

頓宮址は3箇所あります。一は白樫城の麓、二は瑞巌寺、三は小島城の傍です。現代となってはいずれが真の頓宮かは判りませんが、建物の充実さなどから、おそらくは瑞巌寺が頓宮たりえたのではないかと思われます。当時の南軍がいくら強かったとはいえ、わずか3ヶ月後には足利軍が京を奪還しており、土岐氏が固めている美濃でそれほど南軍の脅威に恐慌する必要もなかったでありましょう。

しかし南風競わずのなかで京を陥し、北帝を美濃まで追い落とすとはかなり痛快な出来事でありました。そういった意味では、南朝史蹟と言ってもよろしいでしょう。

 

春王・安王

2008 - 06/21 [Sat] - 22:47

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今回は南朝関係者ではありません。敵とも言える足利氏です。すなはち、鎌倉公方足利持氏の次男である春王と、三男の安王の墓です。足利氏ではありますが、後南朝勢力を徹底的に弾圧した六代将軍足利義教の犠牲者ということで今回取り上げました。

この墓は岐阜県大垣市垂井、国道21号線沿いの墓地の中にあります。関東公方の息子がなぜにここで死んだのか。深い深いドラマがありました。

 

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